キリスト教について2

第1章のつづき

 

1-3 キリスト教のルーツ

 

 キリスト教は日本人にとって、アメリカやヨーロッパの宗教である。それは日本のキリスト教のうちカトリックは主としてヨーロッパ、プロテスタントはアメリカから入ってきたという事情による。しかしもともと、キリスト教は中近東のパレスチナが発祥である。それもイスラエルという、日本人にとっては少なくとも現在では最もキナ臭い国の一つの国にルーツを持つ。つまりキリスト教の母体はユダヤ教であり、当初はユダヤ教の分派といっていいものであった。それが1世紀に分かれてキリスト教となっていったのである。パレスチナの弱小王国であったイスラエルは何度も大国、例えばエジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ローマ帝国等に侵略されてその支配を受け、国民全体またはその一部が奴隷化されたり(補囚)、国の半分を失ったり、属国となったりして、ついには国家そのものがなくなり、民族は全世界に散らばってしまう。この民族の悲劇の歴史の中で、自分たちを救ってくれるヒーロー、救世主(メシア)が現れることをいつしか待ち望むようになっていった。イエスはそんなイスラエル民族に生まれ、宣教活動を行ったひとりであった。イエスはローマ当局によって十字架に架けられて処刑されるが、このイエスこそが待望のメシアであると信じる人々が誕生し、クリスチャンと呼ばれるようになっていった。ちなみにイエス・キリストとはイエスが姓で名がキリストではない。イエスこそが待ち望まれていたメシア(キリスト)であるという信仰内容の短い表現なのである。今でもユダヤ教徒はメシアはまだ来ていないと考えているし、イスラム教にとってイエスは預言者の一人に過ぎない。ユダヤ教はイスラム教と同様に、戒律(律法と呼ぶ)の厳しい宗教として有名である。安息日である土曜日には仕事はおろか、何歩以上あるいてはいけない、とか何をしてはいけない、かにをしてはいけないという規則ずくめだ。おまけにイスラム教よりも厳しい食物規定があり、食べてはいけないものが沢山ある。イスラム教徒は豚を食べてはいけないので有名だが、ユダヤ教徒は豚はもちろん、鱗のないクジラやうなぎも食べられない。ウサギも食べられない。中華料理等では珍味として尊重されるものは殆ど食べられない。また生まれて間もなく男の子は包皮を切り取る儀式、割礼を受けなくてはならない。キリスト教はユダヤ教から旧約聖書や安息日(土曜日。キリスト教で日曜日になる)を始め、様々なものを受け継いだが、食物規定や細かい律法の規則、割礼などの儀式は受け継がなかった。今キリスト教に倫理はあるものの、厳しい戒律が残っていないのはそのせいである。キリスト教に食物規定が残っていて、豚肉やうなぎが食べられなかったら、最低だったろうなと筆者は思う。大好きな「焼き豚」や「うな重」と永遠におさらばは、いくら信仰のためとはいっても、ちょっと淋し過ぎる。

1-4 信仰を支えるもの―聖書と教会―

 

 クリスチャンは「祈る人」であると先に書いたが、クリスチャンの目立つ行動として、「聖書を読むこと」や「日曜日に教会に行くこと」が挙げられる。よく聖書を読むことや毎週きちんと教会に行くことなどが、真面目なクリスチャンかどうかを測るモノサシとして世間一般で語られることも多い。「教会に毎週行ってらっしゃるの?」「いえ、僕は真面目ではないので、年に数回しか行きません」等という会話が成立してもいる。聖書は言うまでもなく、世界一のベストセラー、キリスト教の正典である。旧約聖書はユダヤ教から受け継がれた正典であり、律法やイスラエルの歴史、預言者による預言、詩歌などの文学が集められたものである。新約聖書はキリスト教独自のものであり、イエス・キリストの生涯と教え、弟子たちの活動、弟子たちが各地の教会に書き送った手紙などが集められている。よく新約聖書を「新訳聖書」と誤って書くことがあるが、これは正しく意味を理解していないからで、旧約・新約の「約」とは「契約」のことであり、神が人間に対してなさった救いの契約のことである。旧約はイスラエル民族と神の間の、新約はキリストを信じる者たちと神の間の「契約」のことだ。聖書を「神様から人間へのラブレター」ということがあるけれど、これはかなり当たっている。神が人間に、歴史的にどのようにかかわりを持って下さったか、神にとって人間がどんなに大切な存在であるかを語ってくれるからである。読者は文書として聖書をすーっと読むことが勿論出来るけれど、それだけではなく「聖書を通して語りかける神」に出会うことも出来る。そして日常生活に必要な様々な心の糧を豊かに得ることが出来る。クリスチャンであれば悲しいとき、辛いとき、不安でたまらないとき、聖書の言葉に励まされ、支えられる経験を必ずしているといっていいだろう。聖書はそのような不思議な本なのである。教会といえば、日本の常識では礼拝に使われる建物のことをいう。しかし、もともと教会とは「クリスチャンの集まり、グループ」のことである。人間の集まりこそが教会だから、野外でも、たとえアパートの一室であっても、特定のクリスチャンのグループが集まって礼拝(讃美歌を歌い、聖書を読み、祈ることなどの行為の総称)しているなら、そこには教会が成立しているといえる。キリスト教の信仰は一人で聖書を読み祈っていればそれでいい、という性格は持っていない(そういう考え方のグループもあるかもしれないが)。信仰を心の中のことにしておくのではなくて、カミングアウト(信仰告白=自分もキリストを信じることを公けにすること)して洗礼(クリスチャンになるための入信の儀式。全身水に浸すか、水を頭部に注ぐかする) を受けて、教会に加わることが前提とされている。教会に加わることは何か宗教団体に入ることであり、束縛されることのような感覚のある日本人は多いと思うが、これは本来信仰を養われ、またお互いに信仰を支え合い、一生涯に渡って信仰を持ち続けるための助けとなる場なのである。その意味では、聖書と教会は信仰をバックアップし、支えてくれる二つの大きなものといっていいだろう。教会には礼拝を司り、洗礼や聖餐式(キリストの十字架の死を記念してパンとぶどう酒に預かる儀式)等を執行する聖職者が存在する。日本人は全く区別がつかないので恥ずかしい思いをすることがあるが、プロテスタントでは通常「牧師」、カトリックやギリシア正教では「神父」「司祭」、聖公会では「牧師」「司祭」と呼ばれる。プロテスタントの聖職者を神父と呼んだり、カトリックの聖職者を牧師と呼ぶことは決してない。カトリックの神父さんは生涯独身で妻帯することは出来ないのに対し、その他の教会では結婚することが出来る。プロテスタントや聖公会ではむしろ、結婚することが職務遂行上の便宜から勧められたりもする。興味深いのはギリシア正教で、高位聖職者(主教)だけは独身でなければならない。神父が奥さんを持っている場合、高位聖職者になる前に夫婦別々に修道院に入るようである。カトリックやギリシア正教では女性は聖職者になることは出来ないが、聖公会やプロテスタントではなることが出来る(筆者も女性牧師である)。しかし、プロテスタントの一部には、女性は聖職者になることが出来ない教会もある。

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