キリスト教について
キリスト教ははじめて、という方のために本当に基礎的なことを書いてみたものです。 入門編として、説教集を読む前に読んでみて下さい。第1章~第5章まであります。基本的に「病院チャプレンによるスピリチュアルケア」(三輪書店)に書いたものの引用ですが、多少リライトしています。
第1章 少し退屈な事柄
1-1 祈る人―クリスチャンとは―
クリスチャンと呼ばれる人に出会ったことがない日本人は結構いるのだと思う。だからイメージも湧かない。外国からの借り物のイメージか、日本のドラマや映画で描かれる「神様、神様といってばかりの、弱虫で現実逃避的な人間」「どこか人格高潔だが、近づき難い人」みたいなステレオタイプのイメージしかない。つまりとても、貧弱なのではあるまいか。 しかし、おそらく会ってみれば分かるが、そんなステレオタイプに当てはまるような人たちではない。非常にエネルギッシュで行動的で戦闘的な人もいれば、 ごくごく普通のおじさんやおばさん、繊細で柔和な人まで、「肉食系から草食系までの」普通の日本人のバリエーションを持っている(概して真面目な人が多いというのは事実である)。さて、そこでクリスチャンとは何か、を一言で言うなら、「祈る人」と言える。 祈り心を持っている人は一般の人にも少なくはない。でも、一般的な日本人は日常的に祈ることをしない。初詣に慣習的に行くことはするし、最近は神社仏閣を「パワースポット」と呼んで、特定のご利益を求めて参詣することも流行っている。後は何か抜き差しならない状況になった時に、助けを祈る位である。しかし、クリスチャンは祈りに関して違った生き方をしている。日常的に祈って生きている。人によって祈りの時間の多い少ないはあると思う。1日数分程度の人もあれば、数時間の人もいる(筆者の場合、2時間位)。 しかし、ともかく、祈って生きている。祈りの内容も一般の人とは違う。普通は「商売繁盛、家内安全」みたいな、自分の願いを勝手に並べたてる祈りが主な内容であるとすれば、クリスチャンはそうではない。もちろんお願いもするけれど、辛かったこと、悲しかったこと、嬉しかったことを神に向かって何でもお話しする。一番親しい存在と語り合う時間、それが祈りなのである。クリスチャンにとって祈りは一番楽しい時間、人生最良の時間、くつろぐ時間、ほっとする時間である。クリスチャンは神を親友にしている。何でも話をする。その意味でクリスチャンは「祈る人」なのである。
1-2 キリスト教の神様は、ひとり、そして三人?
まず、キリスト教の神はひとり(唯一)である。クリスチャンはこの一人の神と親しく語り合って生きているのであるが、この神様は「浮気を赦さない神様」であるところに特徴がある。日本人は一般的に目的別に沢山のパワースポットに行ってお願いするし、結婚式はキリスト教、初詣は神社、葬式は仏教と様々な神仏と組むことを平気でする。しかし、キリスト教ではそういうことはしない。どんな場合にでも、一人の神様とだけ組むことがどこまでも求められる。神様の方が人間を深く愛していて、それを求めるのである。結果、まるで夫婦のように一人の神様と苦楽を一生涯、どこまでも分かち合っていくという生き方が生まれる。これは少し日本社会では融通の利かない人に映るらしい。確かに人によってはこのことに忠実なあまりに、仏式の葬式には絶対出ないという人もいる。さて、キリスト教の神様と言えば、十字架が屋根の上に乗っているし、祭壇にも十字架が飾ってあるし、ペンダントにしている人もいるから、イエス・キリストが神様なのだろうと思っている人も多いだろう。確かにそれは当たっている。確かにイエス・キリストを神様として礼拝するのがクリスチャンである。しかし、神様は違う形でも存在する(?)。もうひとつこれは難しくて、教会に長く来ている人でもなかなか理解出来ないのだけれども、この一人の神様には三つの位格(人格、働き)がある。それは「三位一体」と専門用語では呼ばれる。まず神様は天地万物を創り今も支配しておられる「父なる神」とその父なる神が歴史の中に送られた「御子キリスト(子なる神)」、そしてこの世で今も働いて私たちと共におられる神である「聖霊」という三つの異なった人格と働きを持つ。それでは、この三つは全く独立した三人の人格で、性格まで違うのか、というとそうではない。例えば父なる神は厳しくて、子なる神は優しくて、聖霊はもっと母性的で優しくて、ということではない。この三つは見かけこそ全く異なっていても、同じ本質を持っている。三人の神がいるわけではなくて、あくまでもお一人なのである。 クリスチャンはそれでは、この複雑怪奇な三位一体の神様をどう頭の中で整理して暮らしているかが気になるかもしれない。人によって祈る時には親しみを覚えるイメージを選んで「父なる神様」「イエス様」「聖霊様」等と呼び分けてお祈りしている人もあれば、分けずに「神様」とか「主よ」とまとめている人もある。イメージをどう選んでも一人の方に向けて語りかけているのである。ちなみに筆者は個人的には「愛する主よ」とか「愛する神様」とか呼んでいることが多い気がする。昔行っていた教会でご老人が「聖なる聖なる万軍の主よ」とか「天にまします真のオンカミサマ」と呼びかけているのを聞くと、違和感を感じて、それって誰のこと? 同じ神様のこと? と首を傾げていたものである。