キリスト教について3

第2章 スピリチュアリティの中心、それは愛

 

2-1 愛されている私

 

 スピリチュアリティの中心、それは愛。キリスト教のスピリチュアリティの中心は何かと聞かれたら、迷わず「愛」と答えるし、そう答えざるを得ない。文字通り、キリスト教は「愛の宗教」なのである。一言でキリスト教を説明すれば「愛され、愛に支えられ押し出されて、愛に向かって生きる」のがキリスト教、といっても過言ではない。キリスト教は「隣人愛の宗教」であるということがあまりに有名である。それは新約聖書の次のような言葉に基づいている。「だから、人にしてもらいたいと思うことはなんでも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である(新約聖書マタイによる福音書7章12節)」。筆者の勤務するキリスト教主義大学もこの言葉から取った「Do for others」を標語にしている。しかしそれに比べて、その前提条件となる、もっとも大切なことがほとんど語られていない。それは「隣人愛」が倫理的、人間的な次元だけで分かりやすく語れるのに対して、この大切なことは「神」が介在しているため、宗教的な次元でしか語り得ないからである。「この私が神に愛されている」「この私を神が愛して下さっている」。単純なことだが、それがキリスト教の一番大切な真理である。聖書の箇所を引用すれば「神は愛です(ヨハネ第一の手紙4章16節)」ということになる。私たちが神を愛するのでもなく、隣人を愛するのでもなく、神がまず私たちを愛して下さっている。それがこの聖書の箇所で言われていることである。 神の愛とはどんな愛なのか。愛には「エロス(恋愛)」「フィリア(友愛)」「アガペー(神の愛)」の三つの愛があると言われる。エロスやフィリアは人間に属する愛であり、「…だから愛する」という愛である。条件付きの愛であり、その条件が失われれば失われてしまう愛である。例えば、美しさが失われれば恋人は去ってしまう。どちらかが連絡を取らなければ友情はもろくも崩れ去る。しかし、神の愛は「…にもかかわらず」の愛、無条件の愛である。私はこんな人間である。にもかかわらず、私を愛してくださる。それが神の愛の性質である。私はこんなに弱い、こんなに欠点がある。こんなことをしてしまった過去がある。こんな人生を生きて来てしまった。自分の目から見ても、自分は駄目だ。にもかかわらず、神はこんな私を愛して下さる。その愛に出会った時、人間は「爆発」する。喜びが溢れ、自分の生きる意味を見出す。このことをクリスチャンは一般的に「救い」と呼ぶ。後で触れる永遠の命を与えられることも救いだが、こちらの方が現実的に強いかもしれない(人によっては「私は何歳の時に救われました」というクリスチャンがいるが、それはこの体験をしたのが何歳、ということである)。神の愛は何によって知られるか。それは具体的には十字架によってである。遠く離れて生きる望みを失い、疲れ果てている人間との関係性を修復し、豊かな交わりを取り戻し、永遠の生命を与えるために、キリストが十字架上でぼろぼろの肉塊に成り果てるまでに自分をささげられたことを知ることによってである。

2-2 隣人愛―愛に押し出されて生きる道―

 

 十字架の形を思い浮かべていただきたい。それは垂直の線と水平の線が交差して出来ていることがお分かりになるだろう。カトリックの人たちは十字を切るけれど、それは垂直の線が先にあって、水平はその後に切られるのが普通である。日本語の書き順とは逆になっている筈だ。それはどうしてかといえば、まず神が私たちを愛して下さって、天から下って来て下さったから、垂直の線なのである。そしてそれを受けて、水平の線が生まれる。人間同士も愛し合い赦し合って、連帯していくのである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である (新約聖書ヨハネによる福音書15章12節)。愛されていることを知った私、救われた私は、その愛を自分のものだけにしておいてはならないし、それは実際、出来ない。嬉しいから誰かと分かち合わずにはおれないし、神にその愛をお返ししたいと願うようになる。そこで神に愛をお返しするのだが、その一つの道筋が「隣人愛」、つまり自分以外の他者を愛すること、大切にすることなのである。神の愛に背中を押されて隣人に向かって歩き出すことといってもよい。他者や隣人と言っても、それはあまりに幅広くて具体的に誰のことだか、分からない。広く人類愛のように捉えてみてもそれはあまりに漠然としていて、せっかくの愛が拡散してしまう感じもする。誰が隣人なのか? ということに当時のユダヤ人も疑問を抱いていたのだろう。自己正当化をも含みつつイエスに問いかけている。すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスは一つの譬話を以て、その問いにお答えになった。 「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶ どう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』。さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は言った。「その人を助けた人です」。そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい」(新約聖書 ルカによる福音書10章25節~37節) 。ここでイエスは「誰それが隣人である」というように規定できるもの、つまり家族とか近隣居住者とか日本人というような、その範囲で小さくまとまって義務を果たすようなものではなく、サマリア人とユダヤ人のように(当時両者は宗教的理由から決して交際しなかったとされる)壁があってもそれを敢えて超えて、その人が困窮状態にあるならば自ら進んで助けることによって「隣人になる」ものであることを語っている。かように、隣人には自分の意志でなるものであり、対象は何らかの困窮状態にある人、例えば病気の人、経済的困窮状態にある人、心身にハンディキャップを抱えた人等が基本的に想定される。つまりキリスト教のスピリチュアリティにおいて隣人愛は、基本的に社会的に弱者とされる人々に向かうことが特徴である。伝統的に教会では「慈善(チャリティ)」が盛んに行われてきたし、それが今日の社会福祉のルーツともなっている。

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