キリスト教について8

第4章のつづき

 

4-3 苦しみの中で豊かに与えられるもの

 

 キリスト教は苦しみの意味づけに長けた宗教である、と筆者は常々思っている。「苦しみ」を人生の現実、あるいは所与の法則として受け容れ、諦めることを求めるだけではないからである。まず人は苦しみの意味を納得するまで神に問うことが許されている。旧約聖書のヨブ記の主人公、ヨブという人は神の前に信仰的にも道徳的にも非の打ち所のない人物であったが、不当にも家族も財産も健康も全てを失った。この人物は全くそのことに納得しないで、とことん神を糾弾し問い詰める。神はそんなヨブの立ち方を因果応報で自らを納得させている友人たちより良しとし、自らつむじ風の中から応答なさる。ただし神はヨブの問いの答えを直接には与えない。ご自分が確かにおられ、全てのものを支配されていることを示される。しかし、その答えでヨブには充分で、ヨブは沈黙する。自分の苦しみが神の御手の中にあることが分かったからであろう。ヨブと同様に不条理な人生の理由を神に問い詰めても、直接的に答えが与えられるのでないかもしれない。しかし、人は問いを立てて、何らかの答を神から受け取ることが期待されているのである。次に苦しみは自分のためだけではなくて、自分が苦しむことによって他者が慰めを受ける源とされるというスピリチュアリティがある。この考え方の見られるのはコリント人への第二の手紙である。「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」(コリントの信徒への手紙二1章6節)。自分の苦しみが無意味であるということほど、人間にとって耐え難いことはない。しかし、それがまだ見ぬ誰かのためであると思うとき、慰めを受けとることができる。大きく捉えれば苦しみを媒体にした人類の連帯の希望がそこにあるとも言える。また、苦しみはその人間を清め、神に近づけてくれるものであるとも考えられている。そのような意味で苦しみには教育的な役割機能があると考えられている。例えばある人が病気になったとして、その苦しみは単なる苦しみではなく、このような病気を通して神は何かを教えて下さる、と考えられる。例えば病気の人の理解をすることが出来るためにとか、病気の中でも神を信じ抜くことが出来るようにとかいうような意味づけが、個々人によって全く異なるが、人生の意味に則してなされる。キリスト教のスピリチュアリティとは実に豊かな意味付けの世界であるともいえるであろう。

4-4 「神様は耐えられないような試練に合わせない」

 

 最近色々な人たちの口からよく聞くようになったのが表題のフレーズである。その人たちは特別宗教に関心はない。しかし、この言葉を心の支えにしたり、座右の銘にしたりしている。この言葉を聞くたび、私は正直ニンマリする。多分ご本人たちはこの言葉のルーツがどこにあるのか、ご存知ではない。実はこれ、聖書の一節なのである。第一コリント信徒への手紙10章13節の「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に合わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう逃れる道をも備えていて下さいます」の一部なのである。非ユダヤ人に派遣されていた伝道者パウロが書いた言葉であった。信徒たちは非キリスト教の社会にあって、様々な試練や誘惑に日々曝されていた。他の宗教の神々を礼拝するようにかけられる周囲からの圧力、性的な欲望への 誘惑等々、現代日本で暮らすクリスチャンにも通じるような社会的状況の中で生活することを余儀なくされていた。その信徒たちを励ますために書かれた言葉だったのである。それが信仰を持たない日本人の座右の銘になるとは、面白いものである。書いた当人のパウロ先生も予想なさらなかったに違いない。こんな風にして、キリスト教のスピリチュアリティは日本人の心の中にも受け継がれ、生き伸びていくのだと感心させられる。

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