キリスト教について9
第5章 死後の問題―永遠の生命について―
5-1 死は終わりではない
キリスト教のスピリチュアリティにおいて、特に終末期の患者さんたちとのかかわりにおいて最も大切な要素は「死の問題である」といっても過言ではない。病院のチャプレンたちは、患者さんたちから例外なく死と死後の問題について問いかけを受けている。ここではその考え方の基本線を示しておこう。人間は死んだらそれで終わり、という考え方が現代日本人には強い。日本人の自殺率が高いのも、苦しみに満ちた人生を終わらせたい、自分を消滅してしまいたい、という願望が強いからであろうと思う。若い子でも自殺を口にする時に、「自分を終わらせたい」とほのめかすことが筆者の経験では多いように思う。しかし、いざ命の瀬戸際に直面して自分が無くなってしまうことを考えると、かなり恐ろしい。今こうして苦しんだり悲しんだりしている自分という存在が、全く消滅してしまうということを真面目に考えると、人は髪の毛が逆立ってしまうような恐怖を覚えるものである。筆者も小学4年生の時に近所の子どもが亡くなり、死ぬのが怖くて1日泣いていた記憶がある。キリスト教のスピリチュアリティにおいては、人間の生命は死で終わりではない、というのが基本である。つまり霊魂は不滅なのである。霊魂は不滅であったとしても、何か自分ではないものに輪廻転生して形を変えてしまうという考え方が仏教やヒンズー教にはある。それに従えば、自分の前世は武士であったり、悪いことをして死ねば動物に生まれ変わったりしてしまう。また最近では、宇宙や地球の生命の一部になってしまうというような生命観も広まっている。
5-2 死をも超える希望
チャプレンにインタビューした中で、患者さんからの土壇場の問いかけに対して、チャプレンたちは「復活がありますよ」と語るか「永遠の生命が与えられますよ」と答えていた。患者さんたちの多くは明確な信仰を持ったわけではないが、その言葉に一縷の希望を託して、チャプレンの祈りに合わせて自分を神に委ねて亡くなって行かれるという。「復活」と「永遠の命」という二つの死を超える希望がキリスト教のスピリチュアリティの中には存在している。どちらを強調するかは、そのチャプレンの信仰によるのだと思われる。復活とは、キリストが十字架にかかって死に、三日目に蘇られたように、信じる者も同じように肉体を取って蘇る信仰を指している。人間は一般的に死によって肉体は滅び、眠りにつくが、最後の審判の時にキリストに結びついた者は肉体を取って蘇りを与えられる、という信仰である。永遠の命とはキリストに結びついた者の霊魂が滅びることなく永遠に生き続けることを意味する。例えばこのように新約聖書には約束されている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。これを、死んだ後、すぐに天国に行き、神と共に永遠に生き続けると理解する信仰的立場も存在している。例えばキリスト自身が十字架にかかられた時、一緒に刑死する強盗に「今日あなたは私と一緒に楽園にいる」と言われた記事もあるからである。天国に行ったら、すぐに亡くなった親しい方たちと神の御前で再会できると信じて亡くなる方も沢山おられる。要は厳密には分からないものの、キリストと結びついた人間の魂は朽ちることも滅びることもなく、永遠に生き続ける。無くなってしまうのでも、別の存在に生まれ変わるのでも、宇宙の生命に融合してしまうのでもなく、私のままキリストと共にあり続ける。そこにキリスト教スピリチュアリティにおける、死をも超えた希望の全てがあるといっていいだろう。
5-3 「葉っぱのフレディ」に想うこと
「葉っぱのフレディ」は絵本であるが、最近ミュージカルにもなったりして、「死の準備教育」のための教材として大層評判を呼んでいる物語である。大きな木の太い枝に生まれた葉っぱのフレディは親友で物知りのダニエルから、いろいろなことを教わる。自分達が木の葉っぱだということ、めぐりめぐる季節のことなど。フレディは夏の間、気持ちよく、楽しく過ごした。遅くまで遊んだり、人間のために涼しい木陰をつくったりした。秋が来ると、緑色の葉っぱたちは一気に紅葉した。そして冬になり、とうとう葉っぱが死ぬときが来る。死ぬとはどういうことなのか? ダニエルはフレディに、いのちについて説く。「いつかは死ぬさ。でも〝いのち〟は永遠に生きているのだよ」。フレディは自分が生きてきた意味について考える。「ねえダニエル。ぼくは生まれてきてよかったのだろうか」。そして最後の葉っぱとなったフレディは、地面に降り、眠りについていく。そういうあらすじなのだが、フレディとダニエルの会話を通じて、生きるとはどういうことか、死とはなにかを考えさせられる作品になっている。「まだ経験したことがないことはこわいと思うものだ。でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。変化しないものはひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。きみは春が夏になるときこわかったかい? 緑から紅葉するときこわくなかったろう? ぼくたちも変化しつづけているんだ。死ぬというのも変わることの一つなのだよ」。フレディはダニエルから聞いた 〝いのち〟ということばを思い出しました。〝いのち〟というのは永遠に生きているのだということでした。フレディがおりたところは雪の上です。やわらかくて意外とあたたかでした。引っこし先はふわふわして居心地のよいところだったのです。フレディは目を閉じねむりに入りました。フレディは知らなかったのですがーー冬が終わると春が来て、雪はとけ水になり、枯れ葉のフレディはその水にまじり、土に溶け込んで、木を育てる力になるのです。〝いのち〟は土や根や木の中の目には見えないところで新しい葉っぱを生み出そうと準備をしています。大自然の設計図は寸分の狂いもなく〝いのち〟を変化させつづけているのです。この作品を大層好きなクリスチャンもおられるし、某病院の有名なクリスチャン院長がミュージカルにかかわって話題に上っていたが(それがいいとか悪いとかいう価値判断ではなく)、この物語の哲学自体はキリスト教のスピリチュアリティとはまったく違ったところにあり、むしろ仏教的なものを感じをさせる。命は永遠というけれど、永遠な大自然の命の一部である、という意味である。そしてすべては変化することを知り、それを受け容れていくことが大切としているからである。しかし私は、この物語について、患者さんをなくした直後の家族のケアとか、一般的な死の準備教育には使えたとしても、死を間近にした臨死期の患者さん自身がこれで納得するだろうか、と常々想っている。自分は無くなってしまうが、自分の命は形を変えて大自然や宇宙の一部になる、ということを、人は果たして受け容れられるのだろうか。「千の風になって」という歌にも同じことを感じるが、自分が宇宙の要素や自然の元素に還元されてしまうことに、人は耐えられるのだろうか。キリスト教のスピリチュアリティは、そうではない。この私は私として、神という一人の人格に抱かれ、包まれ、覚えられて、永遠に続くのである。