top of page

キリスト教について7

第4章 苦しみをどうとらえるか

 

4-1 苦しみは罰ではない―因果応報ではない考え方―

 

 終末期の患者さんたちが「どうしてこのように苦しい目にあって自分は死ななければならないのか?」「自分が何か悪いことをしたので、その罰を受けているのではないか?」という問いかけをチャプレンたちにすることは多い。チャプレンたちはその人の心身の状況等によって柔軟に答えるようにしているそうだが、ここでは基本的な考え方を示しておこう。最近スピリチュアルケアの講演をした中で、とある参加者が次のような話をしておられた。その方は子どもがなかなか授からなくて、児童養護施設から子どもを引き取り養子にしている方である。お寺の住職をしている親類から、養子縁組をする際にひどく反対された。それは「悪い因果(因縁)を背負った子どもを家に入れるなどもっての外だ」という理由であったそうである。仏教の方が全てそのような考え方をするとは決して思わないが、一つの(家制度と結びついた因習的な?)仏教的思考法ではあると思う。児童養護施設に入所している子どもたちは、児童虐待等の被害を受けていることが多い。それは親からの悪い因縁を受け継いでいるということであり、そのような子どもを家に入れるということは家系に悪い因縁をもたらす、というのがその考え方の筋道であろう(筆者がもし仏教者だったら、逆にそのような子どもを引き取ることは慈悲であり、善を施し功徳を積むことのように考えるような気がするが)。このような因縁因果、因果応報の考え方は日本人に根強く(因果として納得し、安定する一面はあるものの)、病気や災難に出会った人や障害を負った人々を苦しめて来た。周囲の人から無神経にそのように言われたりして、どれだけの人々が傷つけられて来たことだろうか。チャプレンへの患者さんたちの問いも、そのような思考法の影響を物語っている。しかし、キリスト教では不幸や病気をそのような因果律によって捉えない。そのことはイエス自身が明確に語っている。「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが 罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』 イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」(ヨハネ福音書9章1節~3節)。 日本ばかりではなく、ユダヤ教にも障害を持って生まれるのは因果応報、この場合神の罰である、という考え方があったことが弟子たちの問いから分かる。しかし、イエスの答えはその否定的な思考法を全く否定し、反対に神の業が現われるため、という積極的思考法を取る。「神の業が現われる」とは「神の栄光を顕す」とも言われるが、日本人にはなじみにくい考え方である。何か素晴らしい存在、例えば太陽でもマザー・テレサで もいいが、日本人はその物や人がそのまま素晴らしいと考える。しかしキリスト教ではそうは考えず、背後にその物や人を素晴らしくあらしめた神の存在を考える。例えば太陽が偉大なのは太陽自身のせいではなく、「神の業が現われている存在」「神の栄光を顕している存在」だからである。つまりその生まれつきの盲目の人を見て、誰もが「神様は素晴らしいなあ」とか「この人を見ると生きる力を与えられるなあ」という状況が生まれるため、つまりその人を「これからそのような世を照らす光に変えて下さるため」に今の不自由な状況はあるのだ、というのがイエスのお答えなのである。過去の因果に囚われるのではなく、これから何か素晴らしいことがなされるのだという、全く未来志向の考え方がそこに存在していると言っていいだろう。ちなみにこの物語をきっかけに、障害を持った方々がキリスト教に入信したという話を、昔からずいぶんと聞かされて来た。それは因果応報の考え方に傷つけられ続け、この物語の中に慰めと解放を覚えた結果であったのだ、と思わされる。

4-2 苦しみを一緒に背負う神

 

 「この私が苦しんでいた時に神はどこにおられたのか」と多くの人が問う。あるいは苦しんでいる今、どこにおられるのか、と。それに対するキリスト教の答えは「あなたと共に苦しんでおられる」である。良く知られたフット・プリンツ(足跡)という詩がこのスピリチュアリティをシンプルによく表現している。「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人の足跡が残されていた。一つは私の足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は、砂の上の足跡に目を留めた。そこには一つの足跡しかなかった。私の人生で一番辛く悲しい時だった。この事がいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛い時、一人の足跡しかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、私を捨てられたのか、私にはわかりません』。主は、ささやかれた『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に、足跡が一つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた』」。このスピリチュアリティの源泉となるのは、やはりキリストの十字架の出来事である。先に書いてきたように、神から遠く離れ罪を負って死に瀕している人類のために、神は肉体を取りぼろぼろの肉の塊になり果てるまで人間のためにご自分をささげられた。このことを通して神は人間の苦しみや死までも歴史の中で人間と一緒に担おうとされたのである。十字架を見る時に、苦しむ人は自分と同じように、あるいは自分以上に苦しむ神を見出す。この苦しむ私と共に苦しむ神を見出すと言ってもいいかもしれない。誰しも人生を共に歩いてくれる存在を求める。例えばお遍路さんの旅は「同行二人」と言われる。一人寂しく巡礼して居ても、それは一人ではなく、お大師さんと一緒なのだ、という意味である。それと同じように、あるいはより具体的に、十字架につくことによってキリストは人間と共に苦しむことを願われた。遠藤周作は「キリストは人間の永遠の同伴者になられた」という意味のことを書いているが、もはや人間が一人で苦しみ、絶望することがないようにと、十字架を背負われたということである。個人的に筆者も、このような「同伴者キリスト」というスピリチュアリティに大きな慰めを受けて来た一人である。

bottom of page