キリスト教について6
第3章のつづき
3-4 罪から解放されて生きる
例えばホスピスで、チャプレンたちがガン末期患者さんから受ける問いかけの一つの大きな要素が、この罪の問題である。死を迎える中で自分の生涯を振り返り、清算をしていくと、自他共にどうにも赦し難い、赦され難いものが残ってしまう。これをどうにか解決しなければ、と患者さんは思われるようだ。入り組んだライフ・ヒストリーの中には様々な赦され難い出来事がある。例えば家族への小さな裏切り、会社に命令されてやむなく手を染めた悪事、若気の至りとはいえ倫理的に破綻した生活をしていたこと等々である。その中で人を傷つけ、貶め、図らずも死に至らしめたことさえ、あったかもしれない。今となってはどうにも取り返しがつかない。当人にも詫びようがない。さて、どうしたものか。人間をどんなにか愛していても、ただ悪を見逃したり、大目に見たり、時の流れに身を任せて水に流したりしないのがキリスト教の神であると書いてきた。しかし、逆説的だが、どのような罪でも赦されるのがキリスト教の特徴でもある。たとえ死刑に当たる罪を犯しても、神の前で一言、本当に自分のして来たことは悪かった、ごめんなさいと言えさえすれば、それで赦されるのである(このことを「悔い改め」とか「回心」と呼ぶことがある)。そればかりか、キリストの赦しを受け取って、新しく人生をやり直すこと、生き直すことが出来る。一から出直し、やり直しがきくのである(これを「新生」あるいは先に既に語った「救い」といったりすることがある)。 ヤクザだった人々が足を洗い、クリスチャンとして出直して刺青だらけの身体を晒して十字架を担いで伝道する「ミッション・バラバ」というグループがある。「親分はイエス様」という映画にもなったが、この人たちを見ているとキリスト教のやり直し、「新生」のスピリチュアリティがどのようなものだかが無言で伝わってくる。どんな人間でもやり直せる、生き直せると語りかけて来るのである。
3-5 アメージング・グレイスを知っていますか
「驚くような恵み、その調べは何と甘美なことだろう。 この私のような卑劣な人間さえ救うのだから。 かつて私は失われていたが、今や見出され、盲目だったが、今は見ることが出来る(私訳)」。 その甘いメロディーラインの故に、様々なCMやドラマのテーマ曲として使われる「アメージング・グレイス」は、すっかりヒーリングミュージックとして定着した感がある。しかし、この歌がどういう歌なのか、知っている日本人は殆どいないようだ。「何かがこの歌にある」からヒーリングを感じるものの、その何かには、残念ながら触れることが出来ていないようなのである。「アメージング・グレイス」とは「驚くような恵み」という意味であるが、何がその内容かというと、実はこの歌は「回心」と「新生」の喜びを歌った歌なのである。作者ジョン・ニュートンは18世紀にイギリスで奴隷商人をしていた男だった。彼は荒くれ者であり、奴隷に対してかなり冷酷非道な男であったという。しかし23才のある日、大きな嵐に遭遇して死に直面してしまった。極限に面して初めて、神をも恐れぬ男は「神様、助けてください」と叫ぶに至った。幸い命は助かり、その後、彼が7才のときに亡くなっていた母が残してくれた聖書を読み始め、信仰を得て生まれ変わり、その後は牧師になって多くの讃美歌を書き、神の恵みを伝える人生を送った。歌詞にある「卑劣な人間」「失われていた」「盲目であった」とは、奴隷商人だったかつてのジョン自身の姿を表している。しかし数々の罪を犯して来た彼は神に赦され、新しく生まれ変わり、生き直す経験をした。それが「見出され」「見えるようになった」今の彼なのである。私はろくでもない人間だったが、この私を救ってくれた神の恵みは驚くばかりに素晴らしい、その喜びを歌わずにはおれない――というのがこの歌の中心メッセージである。メッセージをスルーしないで、せめて「何を伝えたいのかな?」と立ち止まって首を傾げて欲しい、と筆者は思うのである。