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キリスト教について5

第3章のつづき

 

3-2 キリスト教の神は裁く神?

 

 「キリスト教やユダヤ教の神様は裁く神ではないでしょうか」と、よくキリスト教を聞きかじった人に質問される。この質問の不完全なところは「裁き」という旧約聖書に沢山出てくる言葉の理解の狭さにある。「裁き」は日本語では「罰を与える」と同じ意味になってしまい、ただ「恐ろしい審判者」という閻魔様みたいなイメージが定着してしまう。しかし、「裁き」はもともと、ヘブライ語ではミシュパート、「正義と公平のルールを守り、維持する」という意味で、社会の中で不正を正し、不当に虐げられている人たちを救うという意味である。弱者が虐げられているのを黙って見ていられないのが、キリスト教の神の基本的性格なのである。したがって、キリスト教には正義という軸がある。倫理性が強いと言い換えてもいいかもしれない。もしも正義という軸が存在せず、ただ無限の赦しや抱擁であったならば、弱者を貶め虐げる者を、行為を正すことなく、そのままよしとして許容し放置してしまうことになる。ヒットラーがどのぐらい殺戮し、その行為を何ら悪いと思わなくても、そのまま是認してしまうことになる。そこには人間の行為の倫理性を問う局面が存在しない。キリスト教の愛は無条件の愛である。人間が如何に悪いことをしてもその人間を愛する愛である。しかし、その人間の行為をそのまま決してよしとはしないし、見過ごしたりもしない。受容しても是認しない愛、といってもいいかもしれない。日本人は「時の流れに身を任せ」て「過去は水に流し」て生きる民族である。「年を取って子どものようになれば若い頃何をしていても赦される」「死んでしまえばどんな人でも仏様だ」と考えるようだ。しかし、キリスト教ではそのように考えはしない。 たとえば、ある高齢者が認知症になってどんなに無邪気で可愛らしく、透明感を感じさせる程に美しくなったとしても、その人が大陸で兵隊として中国人を殺戮していれば、それを忘れてしまったりはしない。殺された罪のない中国人やその家族の無念さを忘れることは、神には出来ないのである。もしそれを忘れてただ水に流すようなら、本当に神は愛といえるのだろうか。同様に、死んでしまえばただ仏様になってしまったりもしない。人間をどんなに愛していても、ただ悪を見逃したり、大目に見たり、時の流れに身を任せて水に流したりしないのが、キリスト教の神なのである。

3-3 責任を取る愛

 

 新約聖書には「放蕩息子のたとえ話」というのがあり、父親が神、放蕩息子が人間に譬えられている。神にとって人類とは、愛しているのに意に背いて家出して、家出先で財産を食いつぶし、金が底を尽いて困り果てている息子のような存在なのである。もしあなたに息子がいて、たいへん愛して大切に育てて来たのだが、ある日ふっ、と家出して手元を離れてしまったとする。そしてある日、新聞報道でその息子が何か取り返しのつかないことをしてしまったのを知ったとしよう。誰かを誤って殺してしまったとか、生活に困窮して強盗してしまったとかを想定すればよい。親であるあなたは、息子と一緒に、あるいは息子に代わって、世間に詫びたいと思うだろう。罪の重さによっては、息子に代わって死んでお詫びをしたいと願い、あるいは本当に実行してしまうことさえあるかもしれない。そのことが実際に歴史の中で起きたのが、第2章1項でも触れたキリストの十字架の出来事である。神から遠く離れて、なおかつ抜き差しならない状態に置かれ、罪を負って死に瀕している息子である人類のために、神は自ら責任を取る決意をされた。私たち人間の犯した罪のために自らが代わって十字架にかかり、私たちの負債を全て支払われた。自分が創った故に、自分でどこまでも責任を取ろうとする愛、自分がキリストとして肉体を取り、ぼろぼろの肉の塊になり果てるまで人間のために自分をささげられる愛が、神の責任を取る愛の姿なのである。

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