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誤った聖霊の求め方

使徒言行録8:4-25

 今日の使徒言行録は少し不思議な話から始まります。フィリポ、この人は伝道者として力のある人でしたが、使徒ではなくて執事でした。信徒のお世話をする人として選ばれていたのですね。その中には最初の殉教者となるステファノもいるわけです。ステファノの殉教と共にエルサレム教会に大迫害が起こり、使徒たち以外の人々はユダヤとサマリアの地方に散らされて行って、福音を告げながら巡り歩くことになりました。フィリポはサマリア伝道に赴くことになります。

 不思議と言いましたのはフィリポという人は執事でして、悪霊追放や癒しの奇跡行為をすることもできたのですが、聖霊を人々に付与する力がなかったのですね。執事だったからもうこの時期聖霊を付与する賜物の管理は使徒たちに限られていたのか、つまりヒエラルキーが出来ていたのか、とも考えられますが説教も奇跡行為もしていてただの人々のお世話係ではもはやなかったのに、その力がなかったのです。

 サマリアはユダヤ人から見て、豚の飼われている異教の土地、ゲラサの狂人の話でも登場するように悪霊の支配する土地でした。そこには魔術師までがいました。占いや魔術をすることはユダヤ教ではありえないことでした。魔術師は地元では評判を取っていた人でした。おそらく悪霊の力で呪術を使い不思議なことを様々に行っていたのでしょう。

 しかし、この魔術師も福音に接し、信じて洗礼を受けた。魔術にまさる聖霊の力の行使があったのですね。霊能力のある人たちはその力に勝る力を示されなければ、信じることは決してしません。今でも南米やアフリカ、東南アジアなどでは宣教師はこのような現地の宗教との力の対決をしています。そこで勝てなければ決して宣教は進まないのですね。例えば呪術師がかけてくる呪いを宣教師が打ち破る話などざらにありますし、福音派の相当レベルの高いフラー神学校の世界宣教学部では真面目にこのような霊的闘いを教えています。日本でも新潟の栃尾という田舎で牧師をしている方が、地元の霊媒師の方を霊的に解放し信仰に導いた事例があります。その教会はわずか二三年でメンバーが倍になりました。

 そこでエルサレム教会から使徒たちが派遣されて来る。イエスを主として信じて洗礼を受けていながら、サマリア人は聖霊を受けていなかったのですね。洗礼と聖霊を受けることがこの時期もう離れてしまう事例だったのでしょうか。説教を聞くとともに受霊していたのが最初期、洗礼の時に受けるのが次、その後は段々洗礼の後になっていくのです。聖霊を受けたかどうかを判別するのは異言で語るかどうかで判別していたようですから、誰も異言を語っていなかったのに違いありません。

 使徒たちが手を置くと異言で神を賛美しはじめるのを見た魔術師は、すごい、と思ったのでしょう。自分にもその力が欲しい。是非得なければ。そこで魔術師はお金でそれを買おうとするのです。この物語の裏にはもしかすると、使徒が持つようなカリスマや教会内の使徒のポジションを経済力でもって得ようと多量の献金を使ったようなもっと巧妙で陰湿な事件が実話としてあるかもしれません。あまりに使徒言行録の記録は単純です。地方の民間信仰の担い手、シャーマンがある程度地域で力を持っていた。そのシャーマンが宗教を変えたところでその権力を再び新しい宗教集団内で、経済力によってよい地位を得て回復しようとした、そのためにはカリスマも求めた。そういう物語が教会の初めのころにあったのかもしれません。アナニヤとサッピラの話のような黒歴史です。非常に宗教社会学的な話でもあります。

 それに対して使徒たちは賜物をそのような野心に渡し、経済力やそれによる地位によって付与することを拒否して叱責する。アナニヤとサッピラまでは行っていませんが、金も一緒に滅びてしまえ、という凄い呪いですよね。

 ではどのように聖霊のカリスマを求めればよかったのでしょうか。それがおそらく自分の満足や名声、地位のためにではなく、教会全体のために、あるいは地域の人たちのために求められたのなら、あるいは宣教のために求められたのなら、与えられたのだと思うのです。そういう必然性によって求めたなら与えられたかもしれないのです。

 そして経済力によってではなく、祈ることによって、手を伸ばすのではなく、膝まづくことによってなら与えられたと思うのです。

 経験上、異言を自分以外の人に分かち与える賜物は一つのブレイクスルーによってしか、付与されません。私たちの教会も数年前まで異言の経験がほとんどない教会でした。私は聖霊が他の人に分かち合われないことを強く悩んできました。牧師にはカリスマ体験があるけれど、他の人にはほとんど出ない。そういう教会として長くやって来ました。不思議な話をしてもみんなとても冷やかでした。強く祈ることは出来ませんでした。神様の介入が信じられなかったからです。それで牧師も気持ちが削がれていました。このままではどうなるのだろうか。私はとても苦しみました。

 行き詰った末、数年前の今頃、私は山にこもる、と言いました。山に籠って祈祷院で祈り切るつもりでした。祈り切ればブレイクスルーさせていただけると期待していました。具体的にどこにこもるか探してもいました。

 そんなある日、御声を祈りのうちに聞きました。「重い注ぎを与える」そして次の日、最大の不良債権の一人、大和教会の小泉牧師が異言を与えられました。彼女はどんなに手を置いても何をしても異言が与えられなかったのです。その後は二年間で六十人以上異言を与えられました。非常にリベラルな牧師さんもいました。セクシャルマイノリティの牧師さんもいました。自閉症の坊ちゃんもいました。元麻薬中毒の方もいました。体験と共に重い鬱病の癒しが起きました。いろいろな癒し特にメンタルの癒しが起きていきました。それは本当に燎原の火のようでした。私たちは祈りを信じることが出来るようになりました。神の介入を信じることが出来るようになりました。それはやはり聖霊体験を分かつ賜物からしか来なかったことなのです。

 神が私が自分を追い詰め切る前に与えて下さった。それが私の体験でした。しかし、掴もうとするのではなくて、自分の力ではなくて跪くことによってしか聖霊の賜物は与えられないのです。跪いて敬虔にしかし粘り強く、ブレイクスルーを求めて参りましょう。今私たちはブレイクスルーを求められています。

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