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背負われて歩む

イザヤ書46:1-4

 第二イザヤの預言に当たる部分です。バビロン捕囚に置かれた時に、バビロニアの神々になじんでしまい、イスラエルの神を棄ててしまう人たちが少なからずいたのですね。その中で、偶像崇拝に陥る人たちに対して、偶像の虚しさを預言者は語るわけです。

 偶像は担いでやらなければならない。しかし、とその対比において語られる神は、どのような神なのか。その神は逆に人間を背負うのですね。生まれたときから背負う。同じように歳をとり、白髪になるまで背負う。書かれていませんが死のかなたまで背負うのですね。背負われなくてはならない偶像と一生涯永遠の彼方まで背負ってくださる神。それはなんという違いなのでしょうか。

 フットプリンツという詩がありますが、あの詩は神に背負われて生きるということをよく表した詩であると思います。一番しんどい時に神が背負って歩いてくださる。

 さて今日お話したいのは白髪になるまで運びかつ救う、の現実感の話なのです。数年前教会が一番大変だった時のことですが京都で私市先生にお会いしてきました。一時間位です。私市先生は終始快活でコイノニア会の中の深刻な話をしながらもどんどん楽しそうになっていかれました。そして最後になって言われました。けらけら笑いながら、あなたのことを祈ると牧師として背負っている召命の重荷を軽くしてくださいとしか祈れないんだよ、と言われました。そしてもう一つは小さいことは悩まなくていい。キリストの十字架の贖いがすべてや、それがすべてなんや。けらけら。

 十字架の贖いがすべて。

 先生が戦後キリスト教に入信なさったのは、こんなエピソードがあるのですね。先生はお国のために死ぬことを徹底的に教育されて来ました。何のために生きるのか、お国のために死ぬため。一番多感な時代をそういう洗脳的な教育を受けて過ごしたのです。それで戦争が終わった時に信じるものがなくなった。その時に福音に出会った。一番感動したのは国のために死ぬことを教えられてきたけれど、キリストは私のために死んでくださる、ということだったのですね。死ぬことを強制する神ではなくて、神であることを放棄して死んでくださる神。その神の愛を真剣に受け取ることがすべて。

 十字架の贖いに背負われて愛を受け取りつづけて生きてきたのが先生の八十六年ばかりだったでしょう。ガンを背負いながらケタケタ快活に笑っている先生を見て、白髪になるまで運びかつ救う、という言葉の現実がよくわかってきたのですね。いろいろな場面でいろいろに神と共に生きて来た。いろいろな局面を通った。祈って聞きいれられ、信頼し、信頼を積み重ねて、太くて揺れない絆、パイプが神様との間に出来ている。心が動かない。動じない。そういう人間として仕上げられること。それが白髪になるまで運びかつ救う、の中身なのですね。言葉を換えて言えば恩寵の中で生きる、恵みの中を歩まされる、ということなのですね。

 けらけら笑う先生から、何かスパークを受け取った気がしました。按手されて祈られたわけではないのに、聖霊の強い満たしが与えられました。お別れした直後に来ていたメールを見て全身の毛が逆立ちました。神様がお膳立てしておられたことだったのだと感じたからです。

 個人としてもそうなのですが、私はこの約束はより強く、教会に与えられていると思うのです。もともとあなたたちとは、囚われのイスラエル共同体のことです。今で言えば教会のことです。

 私達の教会はこの地に越して来て七年になりました。集会として誕生してから約二十年。大きな聖霊の御業が草創期と転居してからと二回ありました。本当に六十人以上の人が二年間で聖霊のバプテスマを与えられ、沢山の癒しや悪霊追放を見て来ました。目覚ましい癒しも沢山ありました。強い主の御業を見て来ました。その歩みの中にあって、私は神の導きというもの、の存在を疑うことは出来なくなりました。
今一つは世界の教会そのものについてなのですね。私は船の右側の連載、「越境する聖霊」を書き終えたのですね。聖霊のバプテスマの証しを12人集めたのです。信仰に入る前から異言を頂いていた人、小学生で受けた人、求めて求めて受けた人、欲しくないのに受けさせられた人、障害をお持ちの人、LGBTの人、カトリックの聖霊刷新まで多種多様でした。それを分析して聖霊の働きって現実に何なのか、見てみたわけですね。

 結論としては、聖霊はじゃんじゃんばりばり壁を壊しまくって行く。人間の属性なんてどうでもいい。ものともしない。ものすごい力のエネルギーとして存在されるのですね。そしてその方は聖霊派の専有物などではない、教会の歴史を貫いて流れる教会の霊なのですね。

 聖霊のバプテスマが起きる要因としては「教会共同体」「個人の自由意志」「先行する恩恵」の三つの要素がありました。教会の交わりの中に置かれていること、求めや明け渡しがあること、そして神様の恵みによる選び召し出しの要素などです。共同体の中にいて召し出しのある人は異言なんて大嫌い、と思っても貰ってしまう。外で求めている人は大体において懸命に祈り求めていただく。この人が欲しい、と思うと神様はかなり強引に与えていた。

 ここで見えてきたものは歴史の中に確かに働いておられる、強い意志を持った一人の神のみ姿だったのです。神は個人の歴史と教会の歴史とを見ておられて支配されている。一つの側面ではひとりひとりの魂の歴史を事細かく確かに見ておられる。救おう、育てよう、召し出しを与えようというふうに個人の歴史を導いておられる神。

 そしてその個人の歴史は神様の救いの歴史の中に、教会の歴史の中にじゃんじゃんばりばり吸い込まれて行くのです。いつ来るかは知らされていませんが、世の終わりに向かって教会が歴史の中を歩まされていく、その歩みの中に私たちは確かに置かれている。それが実感できてとても感謝だったのです。恵まれたのです。

 私達は試練に遭った。そして今コロナ禍の中で試練にある。しかしね、生まれた時から教会が誕生した時から負って下さった神は老いるまで担い背負い救い出される。

 「十字架の贖いがすべてや」神の愛を真剣に受け取ること。背負われて背負われ続けて、信頼の中で生きること。これが信仰です。これが信仰を生き抜くこと、生き切ることです。私たちも今日から今から、そこを目指して生かされて参りましょう。

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