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祈りの重さを生きる

ヘブライ人への手紙7:1-3,22-28

 今日からしばらくヘブライ人への手紙を読んで行こうと思うのです。まず初回ですから、緒論的なことを少し話して置きましょう。これを押さえて置きませんと、書簡の場合細部に囚われてしまうことになりかねません。また、歴史的文脈の中の意味を見失ってしまうこともあります。

 まずこの手紙はパウロによって書かれたものではありません。アポロとかバルナバという説もありますが、正確なことは分かっていません。ヘレニスタイ、ギリシア語を話すユダヤ人であったことは間違いないでしょう。また手紙とされていますが、個人宛の手紙ではなく、回し読みされる説教集のようなものです。いくつもの説教が集められています。書かれた年代は八十年から九十年代、ローマを除いた地中海沿いの大都市です。新たな迫害が近付き、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られない一世紀末です。受け取り手も19世紀以降、迫害と背教の危険に晒されている異邦人キリスト者宛とか、正反対にパレスチナのユダヤ人キリスト者という説もあります。迫害についての忍耐について書いているため、ローマの教会が有力候補であると言われます。

 内容的には第一部1:1-4:13でテーマは神の言葉への服従です。第二部は4:14-10:31までで大祭司キリストを見上げながら、しっかりと信仰を保ち、恵みの御座に近づこうということ、第三部は忍耐、耐え忍ぶこと、それも隠れ蓑にしていたローマの公認宗教ユダヤ教を出て、キリストの十字架を負ってキリストに続くことが語られます。この後に挨拶などが続きます。

 今日の聖書の箇所は第二部に当たります。まず、イエスはメルキゼデクという謎の祭司と同じような祭司である、というところから出発しています。メルキゼデクは何度もお話ししてきましたように、創世記14章に出て来る正体不明の祭司です。メルキゼデクと言う名は義の王という名前であり、サレムの王でした。ところで古代では名は人格を表しましたから、メレフがツァディークであるという意味、つまり王は義であるという意味であり、サレムとは平和のことですから、平和の王です。このイメージはメシアであるイエスに容易に結びつきます。

 父もなく母もなく、というのはギリシアでは孤児のことです。系図もなくというのは、祭司は通常、父方はレビ族でアロンの系統であること、母方もイスラエル民族であることが求められましたが、そのような血筋にないということです。また、メルキゼデクがただ一度登場して突然消えるように、いつ生まれて死んだのか、不明なのです。それを積極的な面から言いかえると、神の子に似たもの、ということになります。

 以下、飛ばしたところでは、そのような存在が尊敬を受けることの正当性が述べられています。

 22節以下では律法の下にある契約よりも、優った契約の保証であり、死ぬことがないため、永遠の変わらない祭司職を保っているので、常に変わらない祭司職を持っていて、ご自分を通して神に近づく人たちを完全に救うことが出来る、と言われています。

 この根拠は次に書かれています。それはただ一度ご自分を捧げることによって成し遂げられたということです。これは人間の祭司とは全く質が違う。人間の祭司は自分のためそして、とりなしを求めてきた人たちのために動物を捧げる。しかし、この祭司は自分を犠牲として捧げる、というのですね。

 一昨日、動画で怪談を見ていました。一人三木和尚というお坊さんがいまして、この方は本物のお坊さんなのですが、怪談の語りで有名になり、引っ張りだこになっている方です。この人が話術が上手いのと、怪談を仏教の教えと絡めて上手く話されるのですね。聴く人たちは怖い話を聞いても何か心に仏教の種というかが落ちて来るような説話になっているのです。この方が面白いことを話してました。「みなさんね、正月に神社仏閣にお参りしてお賽銭小銭投げたりしてますが、そんなことしても願いなんかかないませんよ」「捧げるなら一万円は捧げなくては」「ふところが痛む位本気で捧げる必要があるんです。お願いというのは契約です。これこれを捧げますからこれこれして下さいという契約をしているんです。百円位で恋人を与えたり、合格を与えたりするもんですか。」「本当は神様に犠牲を捧げるのは人身御供や、動物だったこともあるのです。」「僕は神仏と契約して本堂が建ったことがあります。」

 この三木和尚の言う通り、本当は願いに応じた捧げものをして神に祈る必要がある。そうしてはじめて願いは聞き入れられる。もともと神仏と人間には断絶があり、そこを埋めるためには犠牲が必要だったわけなのです。

 勿論ユダヤ教ではもっとそこははっきりしていたわけでして、共同体の捧げものとして民数記28章p.262以下、日ごと、安息日ごと、一日ごと、祭礼ごとに沢山の捧げものが捧げられました。これがその共同体が神と共にある、ということの基礎でした。それに加えて、個人の願いもとめに基づいた捧げもの、神様の前に罪を犯した場合の捧げものなどが細かく決まっていました。

 しかしね、キリスト教は違う。神様自らかこの犠牲になられて、断絶を埋めて下さる。神様の方から犠牲の羊となって下さる。自分を犠牲にしてとりなしをして下さるのですね。礼拝をサービスというのは神が私達に仕えて下さるからだ、と言いましたが、神が自ら私たちのために十字架にかかられて犠牲となり、私達を招いて下さるのですね。私を求めよ、そして生きよ。私の肉を食べ血を飲むものは永遠に生きる。生きよ。

 サービスというのは仕えることですが、神が自ら仕えて下さるのです。神が今ここで仕えて下さる。全身全霊を捧げて私達に永遠に仕えて下さる。それがとりなし、の意味なのですね。

私達はそれを受けて生きる。ただ受けるしか出来ないんだね。砕かれてありがとうございます、それだけなんだね。その中で私達も祈り求め、与えられて行く。他者のために執り成しをし与えられて行く。祈りが聞き入れられるというのはそういう重たいことなんですね。

 神の方が高い高いお賽銭を払って下さっている。一兆円とかね。私のために。私たちはそこに立って祈り求めて行くわけなのです。

 本当に恵みですね。この恵みを感じながら味わいながら、祈り続けて行きたいと思うのです。

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