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確信を失うことなく

ヘブライ人への手紙11:1-3

 迫害に当たって、信仰の動揺を経験しているヘブライ信徒たちに対して、集会を怠ることなく励み、苦しみを耐えるべきことを述べた上で、有名な言葉にかかります。これはどういう意味なのか。

 この言葉は伝統的にこう言われて来ました。信仰とは望まれている事柄、つまり人間の側の態度とは関わりなく存在する客観的なものを、本質とする、客観的保障、実体とすることであり、見えない事実を確認することだ、というのです。

 筆者にとって信仰とは、望まれている事柄、希望のことがらを本質や客観的保障とすることだ、というのです。

 目に見えないもの、手で触れないもの、希望としてあるもの、を客観的な保証とする、本質とするということです。

 つまり私はたとえ死んでも、教義的によみがえりが約束されているから、客観的に存在するものだから、それを実体とする保証とする、という理解なのですね。客観的にという言葉に私は引っかかる。

 おそらくこの解釈自体がかなりバルト神学的なものだと感じます。そこには人格に基づく信頼や実存的な賭けの要素が抜けてしまう。

 そうではない。神の言葉や約束というものを握って信仰を賭ける、私を賭けて従う。確認する、アーメンという。そういうことだと私には読み返して読めてきたのですね。

 例えばノアは周囲に笑われながらも信仰によって箱舟を作って生物を入れる。まだ雨の音がしない。何も起きない先から、望んでいる事柄に賭けたのですね、まだ見ていない事実に自分をかけたのですね。アーメンと言い続けていたのですね。

 アブラハム、行先を知らないで故郷を出ていく。そして星の数ほど子孫を増やすと言われながら子がなく、やっと与えられた子どもさえも、犠牲として捧げよ、と言われる。ただ神に賭けていく。見えなくてもしるしがなくても、私を賭けて従っていく。

 では賭けさせたものはなんなのか、神へのいちずな信頼であります。神へのいちずな信頼があるから、約束して下さったことを確信し、見ない事実にアーメンと言い続けていったのです。約束してくださった方が真実な方だから、私もそれを信じる。目に見えないけれども、そこに自分の基礎を置く。そうして生き抜いていく。

 そこには、動揺する信徒たちへの鋭い指摘があります。そのような希望を、まさに状況が悪く見えない故に失っている彼らがいるからです。

 状況が悪い故に見えない、未だ起きてこない、救いの日を信じられない信徒たち。信じることが出来ずにいる人たち。それに対して、信仰の本質とは目に見えないもの、まだ現れて来ないものを握って行くことだ、見えるもの現われているものだから信じるのではないのだ、ということを語っているのです。

 これから、様々な信仰の義人たちが挙げられて行くわけですが、その人たちはまさにそのような神にあって希望の事柄に過ぎないことを、握って賭けて突き進んだことが述べられて論証されて行くのです。

 このような論証がしつこいほど、繰り返されているのは、動揺がそれだけ激しかったことを物語っているのでしょう。

 さて、聖霊派の信徒や教会はこのような信仰のあり方の弱さを抱えていることがよくあります。見えているものを信じる、しるしを信じることが多くなるからです。

 初代教会はしるしや奇跡に特徴づけられ、それが自分たちが神の民とされた証拠でありました。パウロはロマ書の中で聖霊を証印とすると言っているところがあります。ガラテヤでも、聖霊が共同体の中で働いていることが自分たちが神の民とされている証拠でした。信仰義認の根拠だったのです。

 しかし、第三世代位のキリスト者の教会では、もはやそのようなダイナミックな聖霊の働きは少なくなっていました。文献的にもクレメンス一世の頃、そして地域的にも、弱くなっていたらしいのです。もちろん地域によっては三世紀終わり位まで聖霊の働きや賜物は見られていたのですが。

 その中で、このような信仰に立つことが勧められたのです。体験されることに望みを置くのではなく、現実に起きることに望みを置くのではなく、神が約束して下さった事柄、希望に根拠を置き、見えなくても、それを保証として立ち続ける信仰のあり方です。

 私はその二つ、しるしを保証として確信を持つ信仰のあり方、そしてここで勧められている信頼の信仰をどちらが駄目でどちらが絶対と言う風には思いません。状況の中で非常に相互に補い合うものであると思います。

 聖霊の働きを保証とする信仰はインパクトを起爆剤として、ダイナミックな、パワーのある信仰になります。しかし、そのような聖霊の働きは何故か、こちらの信仰的態度に関わりなく、静かになります。

 例えばこの教会の歴史を振り返る時に、はじめ聖霊の働きで始まった大学での聖研がやれなくなってしまいました。強い聖霊のイニシアチブがあって若い人たちが真夜中まで信仰について語っていられたことがあった。二十人からちかく聖研に出てきた。しかし、それも何か理由があるわけでなく、火が消えてしまった。2003-5とかの頃ですね。

 二度目は馬鹿の会での出来事ですね。伝道に行き詰って祈って預言を与えられて、燎原の火のように聖霊をみんな体験して言った。リアルペンテコステですね。そういう時は点が線になりどんどん人が救われる。異言を頂く。御業が起こされる。2013年から15,6年ころまでの動きです。

 ところが、不思議な聖霊の働きが見られなくなってしまう。あってもぽつんぽつんと、つながらない。これは確かにいろいろな原因は指摘できますけれど、信仰的な態度に大きなところでは関わりなく静かになった。

 そのような時にこそ、神の約束に立つ信仰、そこに根拠を置き、粛々と歩む信仰が必要とされているのです。

 神が自分の人生に与えた召し出しがある。それは果たされる状況にはない。伝道にも展開が見えにくいけれど、それを信じる。それは絶望そうに見えるけれども、状況ではなくて、状況を超えて、それを与えられた神を信頼する。

 いまとても社会的に不安です。どうなるか分からない。しかし、詩編91を握って離さない。大事なことですよ。あるいは詩編23-4でもいいです。

 そうした時に、時を超えて、いつしか人は必ず、思いがけない形で約束が果たされたことを見ることになるのです。また、そのような信頼の中で、再び聖霊の働きを体験することになるのです。そのような信仰のあり方こそが、神に喜ばれるものであるからです。

 聖霊派の信仰を持つ前、私にはこの信仰しかありませんでした。リアルタイムに神の働きを体験する信仰はないので、見えないものを信じて信頼する信仰しかありませんでした。リアルな信仰を与えられた時、この信仰は少し後退しました。

 今また、きちんと自覚的に、二つを捉え返し、見えないものを信頼する信仰を強くされる必要があると思います。

 私たちに召し出しを与えて下さった方は真実な方であるから、私たちの召し出しは果たされる。個人の人生の中の召し出しも、この教会の召し出しもそうです。私たちは呼び集められたのだから、私たちを増やされるのも、家を建てられるのも、神ご自身がして下さることである。私たちは病にも負けない。

 主ご自身が私たちのために、約束して下さることに賭けましょう。神ご自身を信頼してみ言葉に希望を置きましょう。

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