敵を愛するとは

マタイによる福音書5:38-44

 FB友達のあるクリスチャンが偽アマゾンのサイトに誘導されて、クレジットカード詐欺に会いそうになったんですね。すぐに気が付いてクレジットカードを止めたので事なきを得ましたが、その時に「詐欺を許して下さい」と祈ったという書き込みを見ました。私は疑問に思ってしまいました。クレジットカード詐欺が早く捕まるように、なら分かりますが、ここ、赦すところ?という疑問が止まらなかったのですね。

 「敵を愛する」は愛敵の教えとして、キリスト教では根幹的な教えの一つのように思われています。その精神性にひかれてキリスト教に入る人もいますし、歴史的にも大きな影響を与えて来た教えであります。この教えに従って社会的に行動してきた多くの証人たちを見るのであります。

 しかし、最近、どうしてもこの教えが、弱った人々に対して暴力的に働き、被害を受けた人々が自分を縛る言葉として、この言葉を巡って苦しんでいる姿ばかりを目にします。虐待を受けて来た人たちが、そして今なお、その後遺症で苦しむ人たちが、この教えを現代の感覚で文字通り受け取るために、自分の感情と闘い、消耗しています。あるキリスト教系の児童養護施設でキリスト者である園長から性的被害を受けた女性がいました。その被害の直後に、キリスト者である両親が、娘さんに「赦さなくてはいけない」といって、説得していた話を知人から聞きました。娘さんは傷ついている。人間としての尊厳を踏みにじられた。それなのに、まず法的措置を取らないようにいう。ドローにしようとするのです。そして更に精神的に難しい「赦す」という作業をするようにいう。実はかなりファンダメンタルな教会に所属していましたから、牧師さんにも同じことを言われました。まさに言葉は悪いですが、セカンド・レイプの状況が存在したのです。

 それは我々がこの言葉を読むとき、この言葉を内面化し、個人化して読む習慣があるからです。私たちは敵を精神的に包んで、何事もなかったかのように赦し、受け入れ、温かく迎え入れなくてはならない。しかも個人と個人の関係でそうしなくてはならない。そう読むからです。

 しかし、被害者である社会的弱者に向かって、更に精神的な重圧と犠牲を強いるようなことをイエスは命じたのであろうか。それが弱者に対する福音なのであろうか。その疑問は日々深くなるばかりです。イエスは社会的弱者を大切にしていた。それらの人々がどれほど惨めであるか知りつくしていた。そのイエスがそのようなことをなさるのだろうか。

 さて、ここでイエスの説教を聞いていた人たちはどんな人々だったのか。敵とはどのような人たちだったのでしょうか。愛するとは憎むとは古代ではどのような意味だったのでしょうか。

 まず、この説教の文脈ですが、神の国の到来とそのために果たすべきルールの語られている場所であります。神の国の到来のために、あなたたちの行為の規範はこうである、ということを語られる場所です。聴衆は下着や上着を複数持つことが想定されていますし、お金を貸すことが出来る人々でした。古代社会は中産階層というものが殆どなく、圧倒的な貧困層と少数の富裕層から成り立っています。そこからすると、少数の富裕層に当たる人たちです。

 次に隣人とはユダヤ教の同信の人たち、同じ信仰共同体に属する人たちのことです。反対に敵とはそうでない人々、つまり異邦人外国人、信仰を否定する人々、迫害者も含まれます。つまり隣人以外の人たちです。その人たち個人との深い内面的な確執ではなくて、
外的集団的な関係、集合的な関係が問題とされています。個人化されていない、ということなのです。

 最後に注意するのは、愛する、憎むとは古代社会では内面化した言葉ではない、ということです。精神の働きではなくて、行動の問題であるということです。古代社会とはこの上なく集団志向的な社会でした。生きるということは内省的なことではなかった。人々は心理的なことには殆ど関心がなかったのです。またユダヤ教は徹頭徹尾内面ではなくて、行為を問う宗教でした。愛するとは「関与すること」であり、感情はどうでもよくて、関与すること、でありました。反対の「憎む」ことも感情はあってもなくてもよくて、無関心であること、関わりにならないこと、仲間とみなさないことでした。

 まず38-42ですが、報復しないことが勧められています。同害報復は被害者が加害者に対して過大な報復をすることを禁じた法則です。古代社会は名誉を重んじる社会ですから、被害を受ければ過大な報復をしばしばしてしまう傾向に人々はありました。それを最小限にとどめるという意味が同害報復のルールだったのです。これに対してイエスは報復を否定する。神の国は報復のルールにはない。神の国は報復のルールではなく、無抵抗である。それも単に無抵抗で、悪に屈服してなすがままになること、ではない。打たれても屈しないで尚も左の頬を向けることは打たれても毅然と敵の前に立つ姿であります。ある程度富裕で財産に余力がある人たちに対して、不当な搾取を受けることがあっても、怒って過大な報復をしないだけでなく、同害報復もしない。そして、毅然と立つ。毅然と立って、神に自分の報復を委ねて行く姿なのです。

 次に「敵を愛する」の問題ですが、同じユダヤ教徒に関与すること、さまざまにお互いに助け合うこと、反対に敵とされた人々、つまり異邦人、後には迫害者も含むのですが、については無関心、無関与というのが当時言われていたルールだったのです。しかし、このみ言葉はそのようなルールではなくて、敵とされた集団の人たちにも関与すべきこと、自分たちと切り離して無関心にならないことを勧めているわけです。また、祈るとは内面的なことではなく、言葉に出してなされる社会的なことでしたから、社会的な祈りの中で呪わないで祝福を祈ることが勧められているわけなのです。「ローマ人は呪われよ。」と公的な祈り、挨拶代りに「あなた神のご加護を」というように交わされる祈りの中で、呪わないことが勧められているのです。愛することが挨拶と同じレベルに並べられているのに読んで違和感を覚えますが、憎むことが無関心無関与であることから考えるとき、集団的に異邦人には挨拶もしないということで納得が出来ます。

 従って、ここで私たちが学ぶべきことは、一つは何か甚大な被害を受けた時には、同害報復をしないで毅然と生きること、そして自分の手を置いて神に報復は委ねることであります。内面的に赦すことは出来ないかもしれない。出来ないとしてもそこを問題にする必要はない。正しい裁きをする方に一切を委ねることです。たとえ心の整理が出来なくても、そうする。行動のレベルで取りあえずそうしておく。

 呪いの言葉を吐かない。心の整理は神に委ねる。出来ないなら出来ないことを申し上げ取り扱っていただく。しかし、被害者が無理して加害者を包むような、無理な感情労働を強いられて自らを責め苛む必要は一切ないのです。

 先ほどの女性の例で言えばきちんと法律に訴えてよいし、そうすべきだと思います。フィッシング詐欺は捕まって罰を受けること、これを願ってよいと思います。医学が神による癒しに用いられるように、法律が社会秩序を守るために神に用いられるのであります。そこに委ねてよい。それは決して同害報復ではないのです。そして、心の整理は神に委ねて取り扱っていただく。加害者を赦せないなら出来ないといって委ねる。神に存分に怒りを吐いていい。神様は受けて下さいます。やがて必ず慰めが与えられます。無理は決してしない。吐ききって癒しと回復を待つのです。

 今ひとつは自分と敵対する人々、信仰を理解しない人々にでも、関与をやめない姿勢で生きる。無関心でいない。越境して行く心構えを持つ。それもまた、難しいことであるかもしれません。内面的なレベルでないとしても、行動のレベルでも服従は求められます。しかし、出来ない自分を鞭打ち、果てしない地獄を生きることからは私たちは守られることが出来るのです。