数えて見よ、主の恵み
詩編103:1-5
今日メッセージを書くに当たって思いついたのは応答賛美に選んだ『数えて見よ、主の恵み』でした。その参照聖書箇所が今日の聖書箇所です。
ダビデとされる作者は賛美と感謝の念に満たされています。心から賛美があふれ出している。そしてそれは何故か、というと主の御計らい、私にして下さったこと、与えて下さった恵みを覚えるからです。
では具体的に何が覚えられているか。罪の赦し、病を癒し、死から逃れさせて下さったこと、そして愛を知らせ、愛で包み、良いもので満たし、鷲のような若さを新たにして下さる、、、これは体力と気力が衰えずに上昇し飛翔する力を与えて下さる、ということを指します。
短い章句の中に罪の赦し、病の癒し、死からの救出、愛、良いものを与えて下さった恵み、上昇飛翔する気力体力というような祝福のしるしが織り込まれているのです。
1. 罪の赦し。みなさんは深く今年は反省させられたことがあったでしょうか。私個人は信仰的に全くピリッとせず、展望もないまま、うごうごしていたこと。その中でただじっと信頼していること以上には何も出来なかったことを反省し続けて来ました。しかし、どうにもならない、もっと積極的になりたかった。機会があったのに教会に招けなかった人がいた。しかし、低調な中で神は共にいます。インマヌエル。それだけが私の基底を支えてきた信仰でした。
2.病の癒し、死からの救出。これはみなさん、大小経験なさって来たと思いますが、全員が体験していることは、コロナ禍の中で病を得ずに今あることが出来ている、ということです。
先日、浄土真宗のお坊さん、この方はとても求道的な人なのですが、寺の跡取りである二人の奥さんに次々浮気をされて捨てられて、重度の引きこもりでうつ病ですってんてん、経済だけは株をやるので暮らせている、という人です。布団の中で主に暮らしているのですが、この人が聖書を読んだらしくて、ルカ12章の話を唐突に書いていました。
栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つ程にも着飾ってはいなかった。。。聖書を読んで最初に聞いたメッセージは「あなたが今ある、ということを、なぜあなたは今認めないのか?」という言葉だった。クリスマスだろうとなんだろうと変わりなく鬱がひどくて動けず、頭も辛い。集中力なんてどこにもなく、何をやっても面白くない。でも、今、ある。
この話を呼んで僧侶に語りかけた聖霊の働きに感謝すると共に、ある、ということがいかに難しいことなのか、あり難いことなのかを彼に気付かせた、気付くことが出来たということに感謝したのでした。
コロナ禍の中で今、生きることが許されていること。うごうごしたあり方しか、たといできなくとも、肯定されて、あることが許されていること。生かされているということ。それ自体が大きな恵みであるのです。
3.皆さんは神様の愛を今年はどのように経験させられたでしょうか。聖書を開く中で、日常生活の中で、神の慈しみ、憐み、というものを新たに知らされて、感謝したり涙したりすることがあったでしょうか。これもあったに違いありません。私個人はアドベントの時、二晩続けて夢の中で神の愛に迫られてかんしゃさせられたことがありました。
4.多くの恵みを、具体的に頂くこと。これは皆さんは沢山数えられることと思います。具体的に数えてみて下さい。何よりみなさん自身三組のご夫婦は赤ちゃんを与えられたことだったろうかと思います。それは教会にとっても大きなことでした。それぞれ授かるというところから難しかった方もおられます。天文学的確率、だった方もおられます。治療が必要かも?という方もおられます。しかし、与えられ、無事に出産を迎えられ、そして元気に育つことを許されているそれは何よりの恵みだろうと思います。
念願だった独立や結婚やそういうものを与えられた方もおられます。それは大きなことだったのではないでしょうか。
私個人は母の洗礼、これは感慨の深いものがありました。私自身が洗礼を受ける前に相当嫌がらせを受け、辛い数年間を過ごした過去があったことを思い返しますと、自分の手で洗礼をその人に授ける、そういうシナリオを神は用意して下さっていたのかと思い返しますと、感謝でしかありません。
今一つは音楽の復活です。片耳が失われたことで全く諦めていたのに、ここに至ってよい指導者を与えられ、復活することが出来ました。私市先生もそうですが、これもネットでの出会いでした。歌もピアノもかなり遺恨が残っていまして、じくじくとしていました。それを神様は見ていて憐れんで下さったのでしょう。弾けなかったベートーベンが弾けて行く、出なかったミ以上が突然シまで出るようになって、それも出なかった高音にミ以上にスクイッロ、オーケストラを飛び超える輝きが出始めて、そういう指導をする先生なのですが、自分が一番驚かされています。これは本当に純粋に与えられたもの、賜物、でしかありません。
5.これら多くの恵みを数えることで、展望のない未来にも、同じように祝福の中を歩ませられて行くのだろう、そういう希望を持つことが許されます。生きていく気力が与えられて行くのを感じます。最近は本当に祝福の中を歩むとはどういうことなのか、を実感させられることが多くなりました。悪いことがないわけではない。しかし、それもよしと変えられて役に立つようになっている。ハイデルベルグ信仰問答の第一問に、あなたの唯一の慰めは何ですか、というのがあります。答えは私が生きる時も死ぬ時もキリストの者であり、天の父のみこころによらないでは頭から一本の毛すら落ちることはなく、そればかりか全てのことが私の祝福に役立つに違いないのです、とありますが、その通りだと感じられるのです。
みなさんもどうぞ、恵みを数えてみて下さい。そして来年を迎える気力、飛翔する力を新たにそこから与えられて行きたいと思うのです。