山を降りたイエスのなさったこと
マルコによる福音書9:14-29
受難へ向かう主イエスをマルコ福音書に追っていきたいと思います。主イエスは一度目の受難の予告を八章でし、その後身体が変貌してモーセとエリヤ、つまりユダヤ教の伝統を代表する人たちと対等に話し合う姿を見せます。つまり、ご自分こそが、旧約に約束された救いの完成者たるメシアであることを示されるのです。そしてイエスは主な弟子たちを連れて山を下りられました。
栄光を垣間見せた後、山を下りられますとそこで出会う今日の事件は、何と悪霊追放です。「お化け退治」なのです。受難予告の記事にサンドイッチになっています。ここでまず理解しなくてはならないのは、受難に向かうイエス、悲しみの道に向かうイエスは単なる悲しみの人ではない。苦しい、辛い、残酷な十字架の道を受け止めながらも、力ある救い主であった、ということです。イエスは長い十字架の影を絶えず意識しながらも力強く歩まれる。私たちの主はそのような方であったのです。
次に「お化け退治」は山から下りて一番に手をつけるような、象徴的で正統的なメシアの仕事だった、ということです。イエスの生涯には実に多くの悪魔払いの記事が出て来ます。マルコでは伝道を始めて「神の国は近付いた」と言うやいなや、矢継ぎ早にお化け退治です。神の国の宣教に遣わすとき、イエスは弟子たちに悪霊を制圧する権能を授けます。悪霊を追放することは、神様の支配がここに来ている、ということを人々に示す具体的で現実的な徴であったのです。今、ここに、神の支配の最前線が来ている。だから悪魔よ、出て行け!そのような宣教をイエス様はなさったのです。
これはいわば霊的闘いの信仰です。現実は様々な悪魔の力が入り込み、支配された場所である。それは普通は見えない形でしかない。抑圧、差別、不正。しかし、悪魔つき、という形では悪魔は見える形で存在している。それを叩くこととは神の国の領土を目に見える形で広げることなのです。
残された弟子たちと律法学者たちが喧々諤々、議論している姿が見られました。何を議論しているのか?話の輪の中心は一人の悪霊に取りつかれた子供を持つ父親でした。山の下に残されていた弟子たちに自分の息子の悪霊を追い出してくれるように頼んだにもかかわらず、弟子たちには出来なかったのです。悪霊を追い出す権能を授けられて、弟子たちは派遣されていた。だから、悪魔を追い出すことが出来る筈なのに、その筈なのに出来ない。問題になっていたのは、イエスが弟子たちに与えた筈の、その権能がちゃんと機能していない、ということだったのでしょう。イエス様は嘘つきだ、あなたのお弟子さんたちはあなたから権能を授かって、うちの息子を癒して下さるといったのに、出来ないじゃありませんか。父親の主訴はそのように聞こえます。
連れてこられた子供の方は今の医学知識から考えればてんかん発作のように見えます。てんかんを癒して下さるように願った父親はお出来になるならば、といいます。イエスはここで、癒されることを願う側の信仰を問題にします。父親はイエスが癒せるとは信じていない。弟子たちに求めても癒されなかったからかもしれないし、あるいは信仰などもともと持つ気もなく、ただ現実的な効果としての癒しを求めて一心不乱、であっただけであるのかもしれません。ともかく、信仰でないつながり方、現実的な効果だけを求めてここでイエスとつながろうとします。イエスはそのようなつながり方を拒否される。信じる、という気持ちで私とつながるものには何でもできる。
さて、この教会で悪霊追放の業をしていく中で、多く出会ってきたものは人間の不信仰の問題でした。あるときホラー映画そのものの闘いを何週間もしました。闘いの末、その人から悪霊は出て行ったのですが、その人はクリスチャンなのに、信仰に立とうとしない、信仰を持って神にしっかりつながって生きて行こうとしなかったのです。その他の多くの場合も治りたいと、悪魔から解放されたいと願う、けれども、信仰に立とうとはしなかった。神と向き合って前向きに生きて行こうと決意しない。直して貰えば自分は自分だから。不信仰という、自分のやり方でどこまでもやっていこうとする人間の根本的なあり方のズレ、罪の問題が根底にあります。イエス様も同じ経験を繰り返しなさったと思います。そのようなことをイエス様は初めから今回は拒否した。信仰を持って私につながれ。でなければ、罪の問題、生き方のズレの問題が結局癒されても残ってしまうからです。イエスの言葉に受け手はイエスと信仰でつながろうという決意をする。信仰のないことを助けられて、信仰さえ与えられて、イエスとつながろうと決意する。そこに初めて神の国が来る。悪霊は追い出されて息子は病から解放されていくのです。
さて、今度は保留して置いた追い出し手の側を取り上げましょう。イエス様は悪霊を追い出すことが出来なかった「追い出し手」の弟子たちの信仰のなさを問題にします。ここでイエス様は信仰の薄い、ではなくて信仰のない、と言っていることに注意して下さい。イエス様は信仰のない弟子たちに我慢が出来ない、といっておられます。自分には時間がない。十字架は見えている。しかし、その業を託していく弟子たちには信仰がない。イエス様の焦燥感と悲しみが伝わってきます。その根拠はマルコらしく後で家の中で語られますが、権能を授かった筈の弟子たちはそれをまともに信じていなかったのか、あるいはそれに過信したのか、どちらとも考えられますけれども、その権能、カリスマを行使していくために祈りが足りなかったのです。カリスマを授かったけれど、それにふさわしい祈り、神との関係の深さがなかったのです。弟子たちとイエスの違いはカリスマの力ではなくて、神との関係の密度であったのです。それが見破られて悪霊は出て行かなかった。信仰とはただ同意し受け止めることではありません。弟子たちはイエス様から権能を付与された時、同意し受け止めたでしょう。ある場合にはそれでも通用したかもしれません。しかし、本物の強い悪魔の力が迫った時に、それは通用するものにはならなかった。カリスマを裏打ちする祈り、神との深い関係がなかったからです。あるいはカリスマをきちんと受け止めて、引き受けて、正面からそのために祈らなかったからです。それはイエスから見たときに、信仰が薄い、のではなくない、ことになるのです。
この箇所を取り上げたのは金曜日の一本の電話がきっかけです。夕方一本の電話がかかって来ました。船の右側の読者の方です。癒しの祈りをしていただきたい、というのです。六十代の牧師夫人でした。
聞いてみると開拓伝道の単立教会で、豪雨被害から心身ともにやみ果ててしまった。教会の裏が一級河川なのだそうです。水が上がって浸水被害を受けた。いつまた被害にあうか分からない。その不安から不安神経症と間質性膀胱炎になってしまった。夜も頻尿で全く眠れない。食べ物も嘔吐してしまって痩せてしまった。身体が持たないので入院を勧められている。もう祈っていただくしかない、と藁をもつかむような思いで電話しました、というのです。当然開拓伝道も上手くいっていない。夫は祈ってくれますが、周囲からは信仰が足りないせいだと言われている。もう信仰を奮い起こすことも出来ない。
聞いていて涙が出て来ました。どんなにかしんどい状況でしょう。教会員は自分のことで手いっぱいで祈って貰えないと話していました。出張して祈ってもらえないか、とも言われましたが、それはお断りせざるを得ませんでした。週に何度も祈って下さい、それもお断りしました。出来ないことをお約束するのは無責任だからです。週一度三十分電話でお祈りする約束をしました。
今まで癒しを求めて、聞き入れられたこともありました。奇跡的な御業を見て来ました。しかし最近は正直、祈って癒されずに引き返してくることが多かった。先ほど話したような癒される側の問題は確かにあります。しかし、こちらの祈りの弱さも痛感させられる。信仰がない、とイエス様に言われても仕方がない。学習性の無力症にかかっているんですね。
この方と自分のカリスマのために祈ってみることにしました。私自身はこの問題に入りすぎると相手の痛みを自分の体に写し取ってしまう。胃が痛みました。なるべくうまく考えない時間をとってしかし、祈りを濃くしなくてはならない。非常にバランスを取るのが難しいんですね。癒しの背後には霊的戦いがある。多かれ少なかれ。そしてそこから距離を上手くとりながら、しかし濃くしていかなければ、祈りは続けられない。
皆さんにお願いしたいことは今はどうぞ、この方と私のために、五分十分という単位でいいので毎日祈って下さい、ということです。教会メンバーの祈りがないと、これは絶対にカリスマ行使は出来ないのです。そうかといって、無理くりにカリスマを求めて祈りを詰めるということも今は無理だと感じています。無理をしてはいけない。信仰が積み重ねられていかないといきなり飛ぶことは出来ない。次の段階で祈りが続けば一日数回時間が出来た時に短い時間手を止めて祈って下さい、という祈り方をお願いします。さらに続けば先にやったようなチェーン祈祷をお願いするかもしれません。
神の国の広がる最前線のところで、悪魔とのぶつかり合いが起きる。そこでは癒し手と受け手の双方の信仰が問題とされる。癒し手はカリスマを与えられて行使するためには、それを裏打ちする神との祈闘が求められる。また自分のカリスマを受け止めてそのために祈ることも求められる。祈らなければならない。祈らなければ駄目なのです。受け手には信仰でイエスとつながることが求められる。「信じるものには何でもできる」という言葉にはそのようなイエスとのつながりが神の国を広げて行くことが込められています。
私たちは神の国の最前線に置かれています。本当は全ての教会がそうなのですが、普通の教会はそれをあまり意識しているとはいえません。規模が大きいので神様の働きがあっても見えにくいことと、教理的に抑えてしまって見ようとしないことと、そして私たちのように聖霊の働きに敏感な聖霊派の共同体でないことによります。私たちには現実に神から様々な宣教のための権能が付与されています。
一つは自分のカリスマというものを感謝し、受け止め、それが宣教のために用いられるように祈って下さい。大切にするのです。今ひとつは神様に祈り、一緒に過ごす時間を多くしていくことです。深い交わりだけがあなたに与えられた最前線の闘いのための賜物を生かすことが出来ます。
もう一つは最前線に置かれていることを、緊張するのではなく、意識することです。宣教の対象となる人々の罪は大きいです。罪の力は強いです。その背後にいる悪魔も強いです。私たちは人間の罪に出会う時に、その背後にいる力とぶつかっていますが、私たちが主権を持ってぶつかっているのではなく、神がぶつかっていて下さるのです。神が闘っていて下さっているのです。それを真剣に受け止めて祈っていきましょう。