小さきものの一人に
マタイによる福音書25:31-46
中曽根元首相の葬儀が品川で会った時に、前後の時間に私は会場付近におりました。ものすごい数の機動隊でした。葬儀場の入り口には自衛隊が列しましたが、これは本当は法的に天皇や皇族以外にはしてはいけない儀礼なのだそうです。さて、それを報じた新聞に自衛隊を擁護して来た本人はさぞかし天国でほくそえんでいるだろう、とありました。
天国に行くなどと日本人は軽く使いますが、私はそれにしてもかなり引っかかりました。この人は海軍の将校として戦時中慰安所を設けて、従軍慰安婦を徴用し、沢山の女性を踏みにじって来た人です。インドネシアで現地に入った日本兵たちが乱暴や略奪をする。それをおさめるために現地の女性たちを調達して慰安所を作った。どんなことをさせられるかも知らなかった若い女性たちが連行されて、集められていきなり複数の日本兵に襲われる。フィリピンの慰安婦にされた女性の証言ではわずか14歳。街を歩いていたら突然日本兵に拉致され、三四人の兵士に繰り返しレイプされた。抵抗すると失神するまで殴られ続けた。それが三四か月続いた、といいます。そんな無数の女性たちの痛み、傷、失われた人生は補償されていません。誰も償っていない。もちろん中曽根氏も償っていない。
そういうことをして来た人、そして今の右傾化、新自由主義の国の方向性を作った人が、どうして天国なのか。つまり日本では何をしても構わない、ということなのでしょう。
現代の日本では何をやっても分からなければ許される、という風潮があります。告発されて社会的に明るみに出されればどうにもならないことが、問題化されなければいくらでもまかり通ってしまいます。最近はさらにひどくてどう考えても問題であることが、権力を背景にして言い逃れにならない言い逃れを繰り返し、見逃されることがまかり通っている。安倍さんの時はその連続でしたが、菅さんになってからは初めから学術会議問題が始まった。言い訳にならない言い訳を繰り返している。そしてそれを改めるでもなく押し通そうとしている。
そのような現代の風潮の中で、今日の御言葉を見ていきましょう。
まず、「裁き」という設定があります。マタイ福音書の教会の人たちは間もなく神の裁きがある、という切迫した中で生きていました。裁きというと何だか怖いですが、文字通りに理解する必要は必ずしもありませんで、具体的にどうなるかは分からないけれど、神によって人間の言動の理非が正される時が来る、全てが神の前に明るみに出されて問われることになる、ということでいいと思います。
現実は正しいことも間違ったことも、あいまいにされ、ないまぜになっている。しかし、そのままであるはずはない。正しいもの、弱い者が泣き、邪悪で強いものが勝ち誇ってそのままでいい筈はない。それがきちんと神によって正される日が来る。それが「裁き」を信じるということです。
リベラルな牧師さん達の中にはすべての人が救われている。ただそれを知らないだけなんだという人がいます。裁きはない、と。私はそうは思いません。そんな甘いことではいけないと思います。
それでは何がこの、裁きの基準なのでしょうか。それは困っている者を助け、支援の必要な時に人を助けることをした人だ、そういうスタンスで生きた人たちだ、というのです。その人たちは何故よしとされるのでしょうか。それは支援の必要な人たちにしたことはキリストにしたことと同じなのだ、私にしたことなのだ、というのです。
私たちには分からない、見えない。しかし、この世の中で小さくされている人々の中にキリストはおられる。私たちが支援の必要な人たちを支援する時に、知らずにキリストを助けていることになる、というのです。
アッシジのフランチェスコという聖人がいまして、この人がまだ若い時に、ハンセン病の人たちが街に来ました。鈴を鳴らして。そこへ飛び出して行って膿を拭ったら、その人がキリストに変貌した、という物語があります。このエピソードもこの聖書の箇所の思想をよく表していると思います。
それでは反対に地獄行き、とされた人たちはどのような人たちなのでしょうか。最も小さいものの一人にしなかった、とは手をこまねいてある時支援を惜しんだということでしょうか。良心の鋭い人はどうしてもそのように見てしまいます。
しかし、この人たちは支援的ではなかった人たち、困っている人達に対して支援的なスタンスで生きようとはしなかった人たちです。この言い訳は主よ、あなたがいらっしゃるのだと分かっていたならお世話しましたのに、分かりませんでしたからしなかっただけですよ。ということです。困っている人、弱い者を見ようともしなかった人たちなのです。いつもやってきましたよ、という主張ではありません。
イエスがこのたとえ話を語った時代は、ローマ的な価値観がユダヤの社会に浸透している頃でした。伝統的なユダヤ教の価値観はお互いに助け合う、弱者を大切にするものです。それは神は弱い者、貧しいものを特に愛する方であるということが理解されていたからです。しかし、ローマの価値観はそうではありません。弱肉強食、効率優先。従って社会の中に格差が生まれていました。強いものは弱いものをどんどん搾取してはばからない価値観を身につけていたのです。後者の人たちはそのような価値観の持ち主であったと思います。イエスの批判はかなり多く、そのような価値観に向けられています。
つまり、支援的な、助けあう生き方をしようとした人々、そのような価値観で生きた人々はよしとされ、弱いものを見ようとしないで踏みつぶした人々は裁かれる。ということなのです。
このような方向性の生き方は福祉の仕事を選ぶという中で実現されやすいように思えます。しかし、それは単に福祉の仕事を選ぶ、ということだけではありませんで、日常の様々な場面における様々なものの見方にかかわってくるのです。
しかしながら、次の問題は、大筋は支援的な生き方を望んだとしても、私たちはブレながらしか生きられない、ということなのです。社会のもたらす価値観は常に、小さいものを踏み潰して、効率を優先するように私たちに働きかけます。仕方がない、といういいわけを私たちにさせます。私たちは流されて、ついには流されていることすら、分からなくなってしまうのです。
私たちは流されながらも、この御言葉を聞かなくてはなりません。「これらのもっとも小さいものの一人にしたのはすなわち私にしたのである。」そして、ブレが分かったならば、ブレました、といって主のところに言い訳せずに戻るのです。
イエスは厳しいことを語られますが、右の手には救いを持って来られました。私たちはイエスにありのままに知られ、ありのままに愛されています。イエスは私たちのために十字架にかかり、命を捧げて下さいました。ブレたと感じたならば、すぐにこの愛のところへ戻るのです。マザーテレサの修道会では毎朝、聖餐に預かります。貧しい人たちのうちでも最も貧しい人たちに仕えるためには、エネルギーが必要です。そうでなくてはすぐにブレてしまいます。だから、毎朝必ず、キリストが私をどこまでも愛して下さる、ということを受け取るのです。
ブレる。人間である以上、現代に生きる以上、必ず、ブレてしまう。しかし、いくらブレても元に戻れるし、私は元に戻る。キリストの愛の元に戻る。イエス・キリストがこの私をこの私のまま、どこまでも愛して下さる。そこへ戻る。イエスの十字架の愛の元に戻ろう。イエスの愛の中に戻ろう。
イエスの愛だけが、今日の御言葉に向って歩き出す力を下さるのです。