執り成し­ー神と人との間に立つ重さ

エゼキエル書4:1-8

 祈りについて私は皆さんに、ともかく祈り求めること、粘り強く祈り続けることは、御心さえ変えうることをお話してきました。

 さてしかし、次第に皆さん、洗礼を受けて数年たったところで、段々次の祈りのステップに入りつつあるのを私は感じているのです。先週、教会のメンバーSさんが弟さんのためのとりなしの祈りが聞き入れられないのは何故だろう、と言われた。私は思わずニンマリして契約じゃないからなんて失礼なことをいってしまいました。何故にんまりしたかというと祈りの難しさを感じ始められたのだなと思ったからです。信仰を持ったばかりの新しいクリスチャンは大事にして、ある意味甘やかして、祈りを聞き入れて神様は祈りを成長させてくださいますから、いい証が沢山聞かれます。しかし、時間の経過とともにいろいろなことを教え、忍耐することや信頼することを教え、最後には祈りの結果ではなく、主ご自身を喜ぶようにというところへ導かれて行く。そういう訓練の過程がある。

 その数日後、Sさんの義理のお父さんが大きな事故に合い、命が危うい状況になりました。Sさんはお父さんのために必死で祈られたことだろうと思います。他のメンバーも私も仕事の手を止めては祈った。祈りは聞き入れられ、奇跡的にお父さんは助かった。緊急の、今必要な助けの祈りは聞き入れられたのですね。

 神様は私達にかなりていねいに祈りについて教えようとなさっておられると感じました。それは自分のためではない、とりなしの祈りというものは本当は重たいもので、祈られた人の心の開き方であるとか、その人に対するご計画であるとか、あるいはその人の学ぶべき課題とか、その人の罪とか、いろんな要素がないまぜになって今はすぐに聞き入れられない、というような状況が生まれているからなのです。

 私たちはいろいろな人のために、それでも祈るべきです。祈るように召されています。しかし同時に執り成す、ということ、それも信仰を持たない人のために、その人に代わって祈るということの重さを知っておくべきです。今日はその話をしたいと思います。

 エゼキエルは神は強める、という名前の預言者です。紀元前593年頃からバビロニアで活動した人で、祭司でした。エゼキエル自身が捕虜としてバビロニアに連行されて、そこで活動していたのですね。エゼキエル書の殆どはこの人の自筆と言われています。エゼキエルはかなり著述活動もしていたのですね。567年まで二十数年預言活動をしました。かなりの高等教育を受けていた人であり、指導的な立場にありました。彼が預言者として召し出しを受けたのはバビロニアの地で、その地に来て五年目でした。彼の召命のあり様は一章から詳しく書かれています。彼は非常に神秘家でもありました。

 小国であったイスラエルはアッシリア、バビロニア、エジプトという超大国が起きるたびにそこと同盟を結びその子分になって、貢物を捧げ、そしてその国の神々を受け入れなくてはなりませんでした。エルサレム神殿にはそんな神々の像も祭られていたのですね。八章を見ますとその様子が書かれています。イスラエルと神とは契約関係にあったのですね。しかしそれをイスラエルは破って行く。その悲しみと怒りをエゼキエルは語らせられるのですね。そのメッセージは神の罰を意図するのではなくて立ち返れ、というメッセージでありました。立ち返らないと滅びが及ぶということです。

 今日の聖書の箇所でもエルサレムの陥落が預言されています。こののち本当に数年してエルサレムはエジプトを頼ってバビロニアに反逆し、バビロニア軍に包囲され、一年半の籠城の後に陥落して王は殺されてしまいます。エルサレム神殿も火をかけられて壊滅します。

 前半はこのエルサレム陥落の預言なのですね。鉄の板は料理用であり、神の固い意志をしめすものでした。そこからエゼキエルはとりなし手として罪を背負うことを命じられていきます。民に代ってですね。390日の間、北王国イスラエルの罪を背負って左脇を下にして横たわっていなくてはならない、というのですね。これは一日中のことだと思いますから、かなりの苦痛を伴いますよね。一年以上そうする。この数はソロモンによる神殿の奉献から崩壊までの年数です。南王国ユダへのとりなしについては40年、バビロン捕囚の年月になります。次に人糞で焼いたパンを焼いて食べるように言われる記事に続くのですね。

 イスラエル預言者は神の愛に基づいた怒りを背負うように召されている。エレミヤもそうです。イザヤもそうです。裏切りの民たちに向かって愛しておられる故に怒る。へッシエルというユダヤ教の哲学者は神人同感説という言葉を使いますが、神の悲しみと怒りを背負うように召される。しかし、預言者の警告、エゼキエルの場合にはエジプトを当てにして今はバビロニアに背くなという立場ですが、それに背いてバビロニアに背き、主の栄光は神殿を去り、人々は滅ぼされてしまうのですね。その悲しみも人間ですから預言者は感じる。感じざるを得ない。エレミヤなんかは嘆いて嘆いていくのですね。

 神の思いに共感させられ、そして民の罪を体の痛みを通して背負うように言われる。ホセアなどは不倫をして男について行ってしまった奥さんを買い戻して再び妻に迎えるように言われる。これは神の痛みを同じように追体験するということです。神が味わった裏切りとそして忍耐と愛のみ思いとを追体験するわけなのですね。この執り成す預言者はついにイザヤ書53章に結実してくる。苦難の僕の姿ですよね。そしてこの苦難の僕の姿こそが、十字架のイエス・キリストのみ姿なのです。

 私たちは神の前に立つものとして、神の思いを預言者のように、預言者として担うことを求められています。その思いは立ち返って欲しい、悔い改めて私の元に来てほしい、私と正しい関係で生きて、人を虐げず、不正を行わずに生きて欲しいということです。神が人を愛しているというときに、それは何か優しいだけのオブラートに包まれた愛ではありません。自分から離れて歩み、その歩みの先で蹲ってしまっている、時に互いに憎み合い殺しあい、虐げ合わざるを得ない私たちに対して悲しみと怒りを持たれるでしょう。痛みに裏打ちされた愛というもの、それが神の愛だと思うのです。

 例えばね、虐待をしてしまう子どもに出会った時に腸が痛む。何という親だろうと憎みたくなるし、責めたくなる。しかし、親の事情を聞いてみるとやはり、親から愛されたことがないとか、障害を持っていて愛というものが分からない。発達障害の方でそういう方を知っています。あるいはもっと深刻なら、親から性的虐待を受けていたから子どもを愛せない。それを聞きますと暗澹たる思いになります。実際にはもっと人間の闇は深く、どこまでも連鎖が途切れない。そこに向けられる神の眼差しはどのようなものか、想像してみて下さい。虐げられた子供には憐れみを、しかし、その子供がまたその子供を虐げたり、殺してしまった時には怒りや悲しみをお感じになるでしょう。それをご自分のものとして全部責任を取ろうとする。親が子どもの責任を取ろうとするように全部引き受けようとする。そしてこちらに立ち返れと宣言する。それが十字架であり、キリストの受けられた苦しみの意味なのです。おまえたちのあり方の問題性、つまり罪、問題性のあり方の結果である悲惨さを全部私が引き受けよう、それが十字架なのです。私は人間の抱えている闇の深さを見る時に、なぜ十字架でなければいけなかったのかが響いてくる。この死でなければ、とりなしでなければ、こんな死に方でなければ、人間の罪と悲惨というものを執り成しきれなかったのだということ、神と人間とを再びつなぎ直すことが出来なかったのだ、ということです。

 預言者はそのキリストのとりなしの素朴な形、原型を表している、ということができましょう。神の痛みを背負い、人間の悲惨を引き受けて祈る。私たちもまた、そのような職務に召されているのですね。神と人との間に立つということ、仲保者であるということはそういうことなのです。確かにキリストは十分に十字架で苦しんで下さった。しかしパウロは十字架の苦しみの尚欠けたるところを身をもって満たすとコロサイ1:24で言っていますが、私たちもまた、隣人の前に立った時に、あるいはねじ曲がった組織や集団でもいい、その前に立った時に、エゼキエルのように痛みを担うわけです。苦しまれる神と共に苦しむわけです。とりなしは自分は安全地帯にいて出来ることでは決してありません。自分も痛みながら片腹を下にして長い時間を過ごしながら罪をキリストと共に担う必要があるのです。

 しかし、エゼキエルのとりなしはイスラエルへの裁きになり、そしてその果てに不可能と思われたバビロニアからの帰還となって民族に実現されました。回復されて行きました。

 私たちは痛みを負ってとりなしてもそれで終わりではありません。十字架は勝利へと向かって行きます。苦しみを通り越した勝利、苦しみのない勝利ではなく、とりなしの苦しみを通り越した勝利であります。凱旋です。

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