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十字架の出来事の重さ

ヘブライ人への手紙6:1-12

 忍耐を持って信仰に立ち続けるように語って来た筆者はここで、洗礼前に学んできた教理の初歩を離れて、この離れては棄てて、という強い意味ですが、成熟を目指して進もう、と読者に呼びかけます。成熟の中身はここでは明らかではありません。

 続いて、救いの体験をし、聖霊を体験し、賜物を味わったものが堕落した場合、裁きにあうという警告が語られます。

最後の部分ではそうは言っても、といって慰めが語られます。

 まず、今日取り上げたいのは堕落するということは、特に自分の手でキリストを十字架にかけ、侮辱することになるという罪の重さです。堕落する、とは不信実を行うこと、です。過去の世俗的異教的な生活に戻り、かつ、キリスト教の真理を放棄するということです。そのような者は、キリストを十字架につけ、侮辱するに等しいのだ、と言われるのです。

 イエスの味わった痛みを私のためのものとして知り、私の罪の贖い主としてイエスを知った。私のために主が何をして下さったのかを深く知り、私に対する主の愛を切実なものとして知った。そして、私は自分の罪から救われた。古い自分の生活から救われた。私は人生の意味を知り、喜びを与えられた。

 そして、聖霊の賜物を受け取った。聖霊が毎日私の傍らで慰めて下さること、聖霊の賜物が現われて様々に私を助けて下さることを味わった。

 それでありながら、にもかかわらず、死んだ行いに戻る。不道徳なことをして憚らない。またキリストを知らない、と公言する。

 それはキリストを人前で鞭打ち、ぼろぼろの肉塊になるまで引き裂き、十字架にかけて殺すことだ、というのです。だからこそ、そのような者は再び悔い改めに立ちかえることは出来ない、という。

 この再び悔い改めに戻ることが出来ない、はローマ帝国の国教化する前はかなり真面目に考えられていました。洗礼を受けてからの罪は許されないと考えて、死の間際まで洗礼を受けなかった人たちもいました。その後は重すぎると言われ、様々な妥協策が考えられ、練られて来ました。

 罪を犯した時にカトリックでは痛悔、告解、償いという三つの段階を考えました。痛悔は神の前に涙を流して悔い改めることです。そして告解を通して司祭の前で罪を言い表し、償いの内容を告げられます。大罪と小罪があり、大罪は必ず告解を受けて償いをする必要がありました。


・聖体に対する瀆聖(聖体を不当に扱う)

・冒瀆(神に対する憎しみや非難、挑発、神のみ名を濫用することなど)

・主日の義務を故意に守らないこと

・妊娠中絶に直接協力すること

・他人を意図的に大罪に巻き込むようなつまづき

・飲酒運転やスピードに酔いしれることによって、他人や自分の安全を危険にさらすこと

・(治癒的処方以外の)麻薬使用

・怒りのあまり隣人を殺したり重傷を負わせたりすること

・意図的な憎しみにより、熟考の上で隣人に大きな危害を加えたいと望むこと

・ポルノ

・売(買)春

・重大な悪徳もしくは罪に加担するような場合のへつらい

・ねたみによって他人の上に大きな不幸を望むこと


「重大な罪」と書かれている例

・まじない、妖術

・偽りの誓い、誓約違反]

・殺人(安楽死も殺人行為にあたるとしている)

・私通(結婚していない男女の性交)

・強姦

・離婚

・姦通、一夫多妻、同棲

・不当な賭けごと、いかさま賭博(ただし、与えた損害が些少で、損害を受けた者もそれを重視しているとは考えられない場合を除く)

・偽証

・主日に已む得ない事情なしに重い労働をすること(『公教要理詳解』)

・告解で故意に大罪を隠すこと(『公教要理』)

・大罪があると知りながら、聖体拝領をすること(『公教要理』)

・子供への洗礼の秘跡を授けさせないこと、故意に遅らせること(『公教要理詳解』)

・教会で結婚の秘跡に与らずに夫婦行為をすること(『公教要理』、『公教要理詳解』)

・自慰

・父母を殴ること

・他人の名声を失わせるために嘘をつくこと


 それによって、祈りをしたり様々な償いが決められています。

 しかし、ヘブル書は厳しく、文字通りの悔い改めの不可能性を述べるのです。十字架のみ業をないがしろにした者は赦されない。

 悔い改められず、その人はどうなるのか。その人は悪い農作物をもたらす地のようになり、役に立たなくなり、失格者になり、見捨てられ、やがて呪われ、ついに焼かれてしまう、つまり破滅的な運命を与えられるという裁きにあうというのです。

 ここで浮かび上がってくるのは、十字架の重さ、であります。十字架の救いのみ業をないがしろにし、大切に出来なかった者は滅亡する。十字架をないがしろにした罪は赦されない。十字架の反対側にあるものは神の厳しい裁きの姿勢であることを否応なく感じさせられます。

 この度のコロナもそうですが、災害が起きるたびに神のイメージを変えられます。私たちには近い神、親しい神、愛の神があります。キリスト教は愛の教えである。私たちの務めは隣人を愛することである。

 しかし、それはある意味本当に部分的で、不完全であることを感じざるを得ないことがあります。

 神はこの度の災害にどのようにかかわっておられたのでしょうか。そのことを神学的に考える時に、幾つかの考え方があります。

①神は愛であるから、この度の災害は悪魔によって引き起こされたものだ。

②この度のことは天災であり、神とは全くかかわりなく起きた。

上の二つに立てば、神は優しい愛のままですが、神は全知でも全能でもないことになります。

③この度のことは神の定めた自然のルールに従ったものであり、天災ではあるが、止めなかった、来ることを許したという意味で、かかわりを持っている。

④この度のことは神の積極的な裁き、罰として来た。神の積極的意図的な関わりがある。

 下の二つにはいろいろなバリエーションがあるでしょう。少なくとも下の二つに立てば、神は何かの意図を持って、このことを許したか、あるいは積極的に介入した。上に立てば試練として、教育的な機会として何かをこのことから、学ばせ、より大きな破滅を防ぐために。下であれば、終わりの時に向かって、長い目で見た時の裁きの一つの現象として。

 残酷な代償の大きな話でありますが、神にはそのように厳しさがあるということなのです。旧約聖書を見るならばそのような神の人間に対する取り扱いは枚挙に暇はありません。

 その中で十字架とは、何か。十字架とは、神の裁きの怒りの鉄拳を自分のもう一つの手で受けて、本当にへりくだって、低くなって、御子を、大祭司イエスを与えた、ということだったのです。ぼろぼろの肉塊になるまで愛を叫び続けるイエスの姿は、神の本当のへりくだり、神の憐れみの姿であったことが浮かび上がって来ます。

 それだから、それをないがしろにすることは赦されない。それはあってはならない。十字架の出来事はそれほどに重い、出来事なのだということです。十字架の出来事をないがしろにしない生き方をして行きましょう。神の愛を踏みにじらずに、自分の中心、宝として参りましょう。

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