信頼を投げかける

ルカによる福音書8:40-56

 信じるということは、何か特別のことのように思えて、難しいと感じることがあるでしょう。特に信仰というと何か教えられたことを丸ごと、信じ込むことや洗脳されることのように思えて警戒する人も日本ではいることでしょう。

 しかし、人間は誰でも信じて生きている。電車はいつもどおりに動いてくれると「信じる」からこそ、いつもどおりに家を出る。電車が突然暴走するなどということはない、と信じるからこそ電車に平気で乗れる。運転手や会社を信用するからできる事です。言い換えれば信頼を投げかけながら生きているわけです。これが例えば家族などの単位になれば、母親はこんな人であるからこんなことをするはずはない。こんなことをしてくれるはずだ、といった人格的な信頼関係で成り立っている。信頼を投げかけあって生活しているわけで、そこに安らぎがあるわけです。

 さて、今日の聖書の中にも信頼を投げかける人たちが二人出てきます。これはヤイロという「会堂長」と「不正出血の止まらない女」です。

 会堂長はユダヤ教の指導者層の人です。この人は12歳の娘が居たのですが、病気で死にかけていた。何とか自分の娘を治してもらえないか、と一心にイエスの足元にひれ伏して願うのです。恥も外聞もない、ものすごい信頼の投げかけ方です。

 不正出血の止まらない女はこの人は12年この方、出血の止まらない女性、と書かれています。この記事をはじめてキリスト教に縁もゆかりもない女子学生たちと読んだ時に、ものすごく反応してびっくりしたことがあります。女の子たちにとって月に一度の生理はとても憂鬱なものなのです。まず生活の制限があります。入浴できない。運動しづらい。旅行しづらい。貧血を起こす子も、買い物依存のような精神症状を示す者も、鎮痛剤を飲み続けなくてはならない者もいました。

 この経験は月に一度ですが、自分が身体を持って生きていること、その身体と付き合い、折あっていかなくてはならないことを、若い彼女らに付きつけます。自分が女であること、いつもはどんなに意識していないような子で、どんなに男性と対等にやれる子にでも、その事実と限界をつきつけて来ます。それが12年間も続くことを想像すれば、地獄だ、というのです。

 もちろん、正常な生理ほどの貧血を起こすほどの出血ではない。ごく少量の出血が続くだけでしょうが、栄養状態がよくない、衛生状態もよくない時代ですから、どれほど身体が辛く嫌な状況だったでしょうか。
そして、この不正出血は宗教的にも辛いものでした。レビ記15章25節以下を見ますと、書かれていますが、不正出血が続く間中、その人は穢れた存在でした。その人も穢れた存在、その人の使った家具や衣服も穢れた存在、その人の使ったものに触ることさえ、穢れを身に受けることでした。穢れた人とは神から見棄てられた、神から断絶された人です。その人が神ともとの関係に戻るためには鳩をささげ、贖罪の儀式を行わなくてはなりませんでした。自分の身体の異常のために、ただそれだけのために、神から見棄てられた、祈りの届かない存在となること、その惨めさはどんなものだったのでしょうか。想像出来ません。

 そのような穢れた人間は家族の中で正常な生活を送ることは出来なかった。誰も汚れを受けるので寄らない。結婚していたとしても妻として母として過ごすことは出来ない。生きながら役に立たない、居ないに等しい死んだ人間のように、生きなくてはならなかったに違いありません。財産はそれなりにあったのか、評判のある医者に希望をかけてかかりました。しかし、それでも直して貰えない。匙を投げられる。その度にどんな惨めな思いを繰り返して来たことでしょう。

 この人は前からイエス様に突進してなどいけなかった。イエス様の前で足元にひれ伏して直して下さいということなど出来なかった。後ろからイエスの服の房に触れた、とあります。前から堂々と行くことができなかった。触れさえすれば治して貰えるだろうと、おずおずと触れたに違いありません。

 二人の信頼の投げかけ方は違っていた。ひとりは正面突破、ひとりは後ろからそっと、イエスに近づき信頼を投げたのです。

 女は直ちに癒されました。おずおずと投げかけられた信頼をイエスはしっかり受け取っておられた。群集が押し合いへし合いしている。その中でもイエスに触れる人はいたでしょう。しかし、それらのひとが癒されたわけではなかった。イエスはおずおずと触れた女のワンタッチを見分けてしっかり受け取っておられた。そして震えながら、申し出た女に声を掛けられるのです。「あなたの信仰があなたを救った」

 何かを信じ込む信仰ではないのです。教義を信じ込むことでもないのです。「あなたが私に投げかけた信頼が、あなたをすくった。」のです。イエスさまに投げかけた信頼が女を救うことになったのです。

 また、途中で会堂長の家から人が来て、もうイエスは来るには及ばないといったとき、しっかりと彼の投げかけられた信頼を受け取っていたイエスは彼に言うのです。「ただ信じなさい。」「信頼を投げかけ続けなさい」と。投げかけつづけた結果、娘は癒されるのです。

 ここで受け取っていただきたいのは、信じるということ、信頼を投げかけるということが大切であるということです。それはイエスさまにしっかりと受け取って貰うことができるのです。おずおずとでもいい、大胆にでもいい。この人たちは一生懸命でした。そういう人間たちの投げかけたものをすべて引き受けてくださるのが、キリストであるのです。

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