信頼の眼を挙げる

ルカによる福音書2:8-20

息をころせ
息をころせ
赤ん坊が空を凝る
ああ 空を凝る
        八木重吉

 クリスマスの物語を読むとき、私は八木重吉のこの詩を思い出すのです。もちろん、生まれたばかりの赤ん坊は眼が明いていませんから、空を見ることは出来ないのです。しかし、私には黒い瞳の輝きと、そして青みを帯びた白目を持った赤ん坊が、真っ直ぐに信頼して空を見上げている情景が目に浮かぶのです。その眼差しで両親や周りの人たちも見ていたに違いないと想像するのです。

 今年、当教会は赤ちゃんラッシュでしたから、リアル赤ちゃんを見ることができます。信頼のまなざし、微笑みにいつでも会うことが出来ますし、癒しや慰めを与えられます。

 何故、神はこのような赤ん坊の姿でこの世に来られたのでしょうか。他の方法で人間たちをあっと言わせてくることも出来た筈です。突然宇宙人のようにやってくることも出来たろうと思います。私は神であるぞよ、私に従え、ということも出来たはずです。旧約聖書の神のように、火の柱雲の柱の中から語り続けるともできたはずなのです。カトリックで信じられている1917年のファチマの聖母のように、6回も現れて七万人もの群集の前で太陽を不思議に回転させ、信じさせることも出来たと思います。そして来なくとも様々な方法で人間たちを支配し操ることも出来た筈です。しかし、そうはなさらなかった。

 赤ん坊の生まれてきた世の中はどんな世の中でしたでしょうか。おそらく、今と同じように力による支配がまかり通り、正義はどこかに翳んでしまい、富が人間の心を支配する世の中であったでしょう。今の人間たちより昔の方が少しでもましだったとは到底思えません。おそらく善も悪もむき出しであったに違いありません。

 神の目から見て、信じるに値する世の中であったとは思えないし、今よりもひん曲がっていなかったとは到底思えないのです。

 赤ん坊は他者に全面的に依存せざるを得ない存在です。自分を他者の善意に委ねなくては生きていくことが全く不可能です。もしマリアが乳をあげなかったら、もしヨセフが暴力的な父親だったら、彼は生きていくことが出来なかった。マリアがおむつを替えてくれなかったら便まみれになってしまった。否、それ以前に中絶することを選んでしまったら、生まれてくることさえできなかったのです。

 有史以来、人口抑制の方法として世界的に間引き、嬰児殺害は普通でしたが、ギリシア・ローマ世界でも赤ん坊を殺すとは普通に行われ、むしろ推奨されていました。有史以来女性は普通十人程度の子どもを産みましたから、全てを育てることはできない。二人目以降の女の子はアテネでは殺された、と言われます。スパルタなどでは健康でないと分かると五歳以下で山に捨てられました。下水溝に嬰児の骨がうず高く積み重なっているのが発見されたというとも記されていました。それは日本でも同じで、キリスト教宣教師として来たルイス・フロイスは当時の日本では育てられないと考えると、赤ん坊の首に足をのせて、窒息させるか首を折って平気で殺してしまうと記録しています。

 そういう世界に無力な者として生まれてくる。そのことには大変なリスクがあった筈です。そのリスクを冒して、信じるに値しない人間たち、その人間たちの作り上げたひん曲がった世の中であることを知りつつ、他者に全面的に依存するしかない存在として敢えてそこに身を投げられたのです。そこで信頼の眼差しをまず、投げられたのです。信じられない人間たちをまず、信じきられたのです。

 それはまた、今ひとつ深い意味を教えてくれます。依存するしかない人々、最後には私たちのすべて、とそうしてつながって下さった、ということです。赤ん坊として生まれてきたキリストの姿は最後の十字架の姿と同じく、無力な、無力の極みの姿です。無力から無力へ、それがキリストの生涯であったといっていいでしょう。それはケアを受けながら暮さなくてはならない人たちと同じ姿です。終末期の人たちを見て、あんなになってしまうのなら、死んでしまったほうがいいとよく話しているのをききます。しかし、どういう形であれ、私たちは「あんなふう」になるのです。ケアを受けながら暮さなくてはならなくなる。それを受け止めることは難しいことです。しかし、キリストはそれを知ってくださっている。そのような私やあなたとつながっていて下さるのです。

 神がまず、私たちを愛してくださった、とヨハネの手紙は言います。神はまず命がけで必死で来てくださった。そして信頼の眼差しを投げられるのです。

 生きていることは辛いことです。絶望することの方が容易いと感じることも多くあります。今は沢山の人が自ら死を選ぶ時世です。女性の自殺率が七月以降急増していて、十月には前年比の82.6%、特に40代の女性は前年比2.29倍にも達している。

そのような状況で神を信じないことのほうが、信じることよりもたやすい。人間についてもそうです。信じることよりも信じないことの方が、何倍も何十倍もたやすい。しかし、踏みとどまって信頼の眼差しを投げたいと思うのです。投げかけられた幼子イエスの眼差しに対して、幼子のような眼差しを投げたい。投げ続けたいと心から願うのです。 

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