人間の血脈と罪の堆積の中に

マタイによる福音書1:1-17

 マタイ福音書の冒頭の外国人の名前の羅列は、聖書を読み始めたばかりの人を断念させるのに十分なものです。どうしてこのような魅力のない書き出しをしなければならなかったのか、疑問に思った方は多いと思います。

 ところがこの福音書はユダヤ人読者に宛てて書かれていますから、昔の日本人が系図にこだわり、清和源氏か桓武平氏のどこかに自分を位置づけたように、イスラエル民族にとっては十分意味を成すことだったのです。自分がイスラエルの12の部族のどこかに連なっていることが神との契約の中にある、選びの中にあるということだったからです。ユダヤ人たちにとっては自分の血は誇りでした。パウロも自分はベニヤミン族の出であることを誇らしくローマ書で書いています。つまり自分の氏素性というものが、そのまま信仰の根拠であり、先祖からの血脈を意識して生きることが正しい、肯定されることだったのです。

 さて、この人たちはどのような人々であったでしょうか。創世記を読みますとアブラハムも信仰の父祖と言われながらも自分の妻を妹と偽ったり、ヤコブに至っては兄弟を騙して長子の権利を奪ったりと信仰はあっても罪を抱えた人たちであったのです。

 その罪のあるヤコブの子孫から12の部族が分かれたことは創世記49章や歴代誌上の2章に見られます。そしてそのユダ族は創世記でこんなふうに預言されています。8:12(p.90)もはやここではダビデのこと、そしてキリストの誕生が預言されているようです。つまりマタイはユダ族の王たる資格を具えていると主張したいわけです。

 しかし反面、四人の女性たちが出てきます。不思議なことです。ユダヤの系図に普通女性は登場しません。通常言われているのはタマルはユダの義理の娘でありながら、夫が死んだ後に父ユダによって子供を生むという姦淫の罪を犯しています。(レビ18:15)またラハブはエリコの遊女です。(ヨシュア記)ルツはモアブ出身の外国人です。また、バト・シェバはダビデが横恋慕して、部下を殺す罪を犯して手に入られた、気の毒な女性でした。つまりおそらくは四人とも外国人であり、外国の女性を娶ることはユダヤ人の伝統の中では忌み嫌われて来たことでしたし、また、いろいろな意味で男性社会の罪を担う存在になっていた人々だったわけです。

 また、ダビデ後の王たちもアサやヨシアのような神の前に正しく歩んだ人も居ましたが、マナセのように異宗教を導入し、流血に明け暮れた王も居ました。多くの王たちは他宗教に傾き、神の目の前に悪を行って行きました。(列王記下21:16)

 つまりここで理解できることは、一面で人間的に誇りとされる家系は、神の目から見た時に実は、目を覆いたくなるような人間の罪の堆積でしかないということ、であったのです。キリストの血脈の中にはイスラエルの神とは無関係な外国人の血が流れている。暴君の血も流れている。売春婦の血も流れている。男性社会の被害者になった女性たちの血も流れている。そうした血脈を受け継いでいる、ということだったのでしょう。

 血脈というものを肯定的に捉える日本人は多いです。かつて地方に住むある方に会いましたが、自分がキリスト教に抵抗があるのは、自分が先祖から受け継いできた血脈を否定することになるからだ、とおっしゃいました。自分は先祖たちと同じところへ行くという素朴な日本人のメンタリティーを持っているとも語られました。

 そのようなメンタリティーについて私は甘さを感じます。例えば自分の血ということについて考えますと、そこで思い至ったことは肯定的というよりはむしろ否定的なことも多いです。私の父方の親族は幼い頃、相続争いで四分五裂しました。騙し騙され、いがみ合い、呪い合う姿を見て来ました。夏目漱石のこころの主人公の家族がやはりそのような状況で「田舎の人が善良だなんて、誰が言ったのだ」というようなセリフが出てきますが、田舎の人や昔の人が善良であったわけではないのです。

 メンタルの調子を崩している同じような年代の人達に多く会います。大体は祖父母の代からアルコールや何かの問題を抱えていて、経済的にも苦しく、親自体が愛されて育っていないのです。そしてその親が心理的または身体的な暴力を思春期までに与えた。その暴力の傷から逃れることができないのです。

 愛されない傷がまた傷を創り出し、傷の連鎖を産んでいく歴史でしか人間の血脈はないのです。おそらく何十代遡っても、何か同じような繰り返しで人間としてのどろどろしたもの、愛の砂漠状態そんなものしか、出ては来ないのです。もっと一般化して考えても、今よりもっと社会は封建的で父権的であったでしょう。家父長に押さえ込まれて女性は男性に従うことを余儀なくされたでしょう。貧しい地方では子殺しや娘を女郎に売ることは当たり前のことだったでしょう。老いたら山に棄てられる棄老の習慣もあったでしょう。

 最近読んだ実話に基づく漫画で、ある霊能者のところに持ち込まれた古い毛皮のようなものの話がありました。ある家に封印されて伝わっていたものを娘さんが明けてしまった。そうしたら精神的におかしくなってしまった。その毛皮は何だったのか?それは高齢になり飢饉で食べられなくなると高齢者は山に自ら行く習慣のあった集落で、その力も残っていない年よりはその毛皮で殺された。そしてその肉は獣の肉として飢えた子孫に分け与えられた。しかし、山に行けたらよかった。子孫を生かすためなら、食べられてもよかった。しかし、せめて人間として死にたかった、と毛布に憑依した高齢者の幽霊が泣くのですね。

 どこまで実話か分かりませんが、そんなことがあったとしても不思議でないくらい、日本の庶民の黒歴史もあるわけなのです。

 児童虐待や高齢者虐待、近親による性的虐待も今よりも多く見られたことでしょう。人間はもっとむき出しに悪かったのではないかとも思います。

 先祖たちというと祖霊として何か浄化されたもののように考えるらしいのですが、実際はそういうどろどろした人たちとの連なりの中に自分を置くというだけのことで、そこに戻っていくことを理想化するのは甘いと私は思うのです。自分というものの問題性を見つめたことがない、自分に底つきたことがない、自分はまあまあの人間で、このままでいいと思うからこそ、自分と同じように問題を抱えていたであろう先祖のところへ戻っていくと言うことが平気で言えるわけです。

 心の病の人が出るということはACのことを考えますと、やはり家族の関係ひずみの存在を表しています。いわば家族病理の被害者とも言えるわけで、その人が坑道のカナリアのように罪の存在を示しているのに、このままでいいというのは、本当に罪なことであるわけです。しかし、自分たちの問題性というものに気づかないのです。

 血脈というものは自分と同じ罪の連関の中に置かれた人間の歴史である。人間の歴史に過ぎない。一面で崇高に見えてもそれはそういうことである。それがこの系図の言いたいことであったと思います。

 キリストの誕生は、それにもかかわらず、そのような罪の堆積と血脈の中に神が介入して下さったことを告げています。神は私たちと同じようにどろどろの血の連関の中に、罪の堆積の中に、介入して下さった。それがクリスマスのメッセージです。愚かで罪を増幅させ、倍加させていくことしか出来ない私たちの血のつながりの只中に神は立ってくださった。その罪を自ら極限まで担うために生まれてくださった。そのことを覚えたいのです。

 人間の血脈や家族という抜き差しならない絡まり、そのことを神はご存知である。その中にある息苦しさや、どうにもならなさを神はご存知である。知っておられて共に背負っていて下さる。そのことを感謝したいと思います。