三相一体の福音 使徒2:14-24,32-42
先週はペンテコステ、教会の誕生の日でした。「ペンテーコステー」はユダヤ教の三大祭りの一つでした。七週祭または刈り入れの祭り、と呼ばれ、小麦の収穫の祭りであり、はじめて取れた小麦を神に捧げる日だったのです。過ぎ越しの祭りから、五十日が数えられていたのです。風、炎、現れは旧約聖書の神顕現、つまり神様が出現する具体的な現れをさします。神が顕現して、その力が下って炎のように見えた。それは舌のようなもので、ここではもう、異言現象が予測されています。
ガリラヤの人たちである筈の人たちが、自分が話すことの出来ない筈の他国や他地方の言語で一斉に話し始めたのです。つまり多言語現象が奇跡として起きた。それを聞いたディアスポラの信心深いユダヤ人たちはすごく驚いたわけです。彼らは民族表、これはトルコやエジプト、ローマに至るまで、非常に広い地中海世界に広がっています。当時とすれば世界中の、といっても良い程だったに違いありません。どうしてこの人たちはこんなことをしているのか、とある人々は寛容に好意的にこの現象を見ました。しかし、またある人々は、泥酔して居るのだ、と批判的な眼差しを向けるわけです。
それに対して、朝の九時だから、そうではないのだと言って反論し、この聖霊の与えられた状態は旧約聖書のヨエル書の預言の実現なんだ、イエス様こそが預言されたメシアで、復活されて天に挙げられ、そして聖霊を注ぐと約束された。それが実現しているのが今のこれなんだ、と論証していく。ペテロの説教ですね。それが今日取り上げるテキストです。
どんな説教をペテロはしたのか。先ほども言いましたように世の終わりに聖霊が注がれる。それが第一点目ですね。今それが起きている。現実に今起きていることはそれだ。ヨエル書の成就。ある信徒は洗礼前にこの箇所を読んだことがないのにここのインスピレーションから夢を見ていました。「これは幻だ」と言われるのです。
次にイエスこそがメシアであることを語ります。簡単にイエスの生涯が語られる。十字架が語られ、復活が語られ、天に昇られたキリストから注がれる聖霊降臨が一つの流れの中で語られるのです。最後にイエスこそがメシアであることが今一度強調されます。
つまり、今見ているこの凄いことは何か。すごいことが起きているんだけれども、これは聖霊降臨だ、イエス様の約束の実現だ、イエス様がメシアとして遣わされて来たこと、そして十字架にかかり復活されて天に昇られたことの証拠なんだよ、と目の前の証拠から語られるわけです。イエス様はあなたのためにいのちを棄てられ十字架にかかられました、でもないし、神様はあなたと一緒にいるでもないんですね。今ならそうかもしれませんが。
三相一体の福音、なんですね。受難と十字架だけではない。十字架と復活だけでもない。
今ここに注がれている聖霊の働きも十字架と復活と一つの流れにある。切れない。十字架と復活そして聖霊が注がれる。それが全部ひっくるめて一連の神様の救いの御業なんですね。いいですか、聖霊の働きに与るから、十字架も復活も大切だと分かってくる。リアルになるのですね。聖霊の働きが保証してくれるのです。
神学校の校長だった牧師さんがなくなる時に「また会いましょう」と言って亡くなられた。復活を信じますよ、また復活したらお会いしましょうということだったと思いますが、私は正直しんどいだろうな、と思いました。聖霊の働きを信じない立場で現実に神様の働きを見ていないで、自分の体が現実に蘇るのを信じるのは、歩けない子供にオリンピックで走らせる位の飛躍があると思うのです。
それを聞いた人たちは大いに心を打たれた。批判していたのに動かされた。私たちは凄いことを見てしまった。目の前で見てしまった。預言が成就し、神様の約束が果たされて聖霊が注がれるのを見てしまった。それを理解してしまった私たちはどうしたらいいのか。この場面でどうしたらいいのか。
そこでペテロは答えるのですね。悔い改めること。神様との関係を修復すること。そしてイエス様のお名前によって洗礼を受けること。そうしたら、罪が許されて、賜物として聖霊が与えられます。
この言葉を受け入れた人たちが三千人にもなった。このすごいことの中に自分も飛び込みたい。洗礼を受けてすぐに賜物として聖霊をいただいたのだと想像できます。実際は、初代教会では順序は逆だったと言われています。説教を聞いているうちに聖霊が下り、異言を語り始める。使徒言行録の10:44以下ではその様子が描かれています。聖霊が下ってしまうので、洗礼を授けないわけにはいかなかったのですね。聖霊が与えられるというのは、神様との関係性が出来た、パイプが出来たというしるしなんです。異邦人でもなんでも神様に受け入れてもらったというしるしなんです。だから、洗礼を授けないわけにはいかないんですね。これで教会が始まったわけです。で、次のところを見ると聖霊を与えられた人たちの間には恐れが生じた。それは怖いというのではないと思います。畏れ、畏敬の方が正しいと思います。自分たちは神と共にいる。神が自分たちの中で現実に働いて下さっている。そういう緊張感だと思います。そういう緊張感があるから、信徒たちは一つになった。持ち物を共有し、礼拝し、分け合って生きたのです。理想的な原始共産制という状態が出現したのですね。聖霊の臨在がある。びしっとあるから、つつまれているから、一つになれた。そういうことなのですね。教会が教会たりえたのです。
私たちの教会は聖霊の働きの中で生まれ、また育てられて来ました。静かでも常に聖霊の働きがあり、2014年のペンテコステに突然発火しました。礼拝と納骨式の後の祈祷会でです。思い出しますと、私は少し興奮する気持ちがするのですね。前の日私は少し心が萎えることがあって、それほど調子は良くありませんでした。なんとか礼拝をやれるくらいには回復していましたが。
だからあの祈祷会も予定にはなかった。柴田牧師の思い付きのようなものだったのですね。お姉さんの調子が良くないので、三年半ぶりに職場復帰だというので、それで祈ってあげたい、ということだったのですね。
ところが祈っていたら、いつもと勝手が違う。ものすごい臨在なのですね。神様がおられて働いておられるのを感じたのですね。異言でいつも祈る人たちの声より、ぜんぜん異言の声が多いんです。どこまで分厚く高くなるかなと思っていたら、気が付くとほとんどの人が異言で祈っていたのです。
後で分かったのですが、柴田牧師のお姉さんは癒しをいただきました。また、信徒のTさんも通院していた喉の癒しが、あの時間から癒されて次の日完治を告げられたそうです。使徒言行録の通りに、しるし、つまり奇跡も起きていたんですね。
私たちの教会はペンテコステの日に、もっと激しい祈り方をしてきた歴史が、実はありました。何時間も聖霊待望会をしたこともあります。しかし、聖霊の満たしはそれなりだったものの、こんなふうに全員が異言で祈り始めたことはなかったんです。
今まで私たちは牧師に祈られて、そのあと個人で祈っている時に異言が与えられることが、ほとんどでした。手を置いて祈って、ビジターの人たちでも、ついには与えられない人たちが殆どでした。与えられずに他の集会に行ってふっともらってしまうのです。一か月して貰った人もいました。何か私はコンプレックスに感じていました。どうして聖霊の満たしは強くても、異言が与えられないのだろうか。うちの教会で異言が語られることはないんじゃないか。私の力が足りないせいか、という悲観的な考えも頭をかすめました。
変わって来たのは2014のイースターからです。Tさんが求めていらして、その場で異言が噴出してきました。これは私たちにとって初めての体験でした。本当に驚きました。
私は指導の方法を工夫してみることにしました。そして木曜日にやっている馬鹿の会で、異言の指導をやってみました。ある牧師先生夫妻にやってみたところ、スムーズに異言が与えられて、喜ばれました。本当に喜びを感じられたようでした。それが思えば前奏曲だったのですね。燎原の火のように二年間で六十人を超える人たちが異言を頂きました。そしてネット越しにやりとりして何人もの人たちが異言を与えられました。ビジョンや癒しを与えられた人もいました。様々な賜物が見られました。本当にある外国語を語る現象もありました。沢山の御業を見てきました。今は静かですが。
三相一体の福音、ここからみなさんに伝えたいことはまず一つはこういう聖霊の働きを大切にしていってほしいということです。これはただじゃないんだ。神様のご計画のうちにある、高価なイエス様の命のかかった出来事の大事な一部なんだ。そう自覚してほしいのです。きちんと意味づける。そういう意味付けをしてほしいのです。ここから信仰の確信に立てるようになって欲しいのです。十字架の出来事はまことである。そして復活も。私にもこれは約束された出来事なんだと信じてほしいのです。
次に聖霊の働きを求めていってほしいのです。ただの不思議なこととして否定したり軽く見たりはしないでほしいのです。求めていってほしいのです。今はとても静かですが、火は来ます。教会の底深く火は燃えています。燃えたたせられるように求めて下さい。
神様の臨在のない、しるしのない教会はやがてダメになります。人間関係が難しくなり、モラルが崩れてただのキリスト教サロンになります。それを私はどうしても避けたい。聖なるおそれ、神様がここにおられるというびしっとした緊張感、それがなければ教会は教会ではありえません。今日もこれからも、心からそれを求めて行きたいと願います。