顕わになっていくもの ルカ8:16-18

 種まく人の譬えの次にルカはともし火のたとえを置いています。意図を汲んで読んで行きますと、種まきでは同じように福音を聞いても、その人の質やレディネスなどによって、成長が異なり、実を結ばないことがあること、が語られています。その人の資質態度、人の側の問題として実を結ぶもの、結ばない者に分かれてしまう。そういうことだろうと思います。

 

 今日のこの箇所ではともし火、信仰の光または福音というものだろうと思いますが、それについて語られています。古代の暗闇の深さというのはどんなものなのか、想像するとかなり恐ろしい気がします。真の闇がそこにあるのですね。そしてその中で簡易なランプの光は相当に明るいものなのです。これがなくては夜動くこともままならない。何も出来ないのです。灯はその暗さの中で、人がそこに憩えるような、生活できるような、人としての空間を創り出せるようなものです。信仰とは福音とはそういうもの。それを隠すのではなくて、人に見えるようにするもの。

 入って来る人たち、とはルカ福音書は使徒言行録と作者が同一ですから、ペンテコステの後教会に入って来る人たち、外にいてまだ神様を知らない、求めている人たちですね。

 

 次のフレーズは隠れているもの、をどう理解するかによって多少違った解釈が出来てくると思います。一つは隠されているものをその人間の本質と捉えていく理解です。神のみ言葉の性質、福音の性質、光の性質は必要なものである半面、受け取った人の本質をあらわに照らし出していく。さっきの信仰の実と同じですね。人の本質態度というものが明らかにされてしまって分かれてしまう。隠されていた本質が明らかにされてしまう。

 もう一つは隠れているもの、を信仰の光と理解して、信仰の光を持っていることは顕わになっていく。それは秘められたままでは終わらない、いずれはそれ自身照り輝き周囲を照らしていく。そういう理解です。光を持っているかどうか、それは容易に識別されてしまう。

 

 だから正しい態度で聞くように注意しなさい、というのですね。偽物と本物とはいずれ本当にはっきりと本質が分かって切り分けられてしまう日が来る。信仰を持っていると思っていてもそうでなかったんだ、ということがある時に明らかにされてしまう。持っている人は更に信仰を増し加えられて行く。光に照らされて本質があらわにされて切り分けられて行くという理解をするか、時が来るとふるわれて光を持っているかいないかで切り分けられて行くか、どちらかです。

 

 さて、この度のコロナ禍は人々を切り分けている一つのふるいのような気がしています。

 本当にただひたすら、怖れて騒いでいるだけの人たちが沢山います。地方に行きますと感染地域から来た人と接触した人は違う窓口で受け付けして診察をするという病院まであります。誰かが帰省してコロナになってしまったら、クラスターになってしまったら、村八分になってしまう。帰省を警戒する心理には高齢者が被害にあうからというだけでなく、排除や差別が怖いからコロナになりたくないという心理が強いと書いてあるものもありました。感染者や医療従事者などに対する差別やいじめが横行しています。看護師をしている方に辞めるように言ったり、保育園に通わせないで、と言われたり。宅急便の配達員が除菌スプレーをかけられたり、タクシーの乗車拒否、果ては自宅に石が投げ入れられたり。脅迫電話がかかったり。勤務先から治癒しても出勤停止を言われたり排除されている事例もあります。これらの事例にせっしますと、日本社会の本質が闇であること、光がないことがあぶり出されて行くような気がします。根幹にあるのは個人の不安の強さ、心の弱さであるような気がしてなりません。それが特定の対象を敵とみなして、嫌悪し、差別することによってつかの間の安心感を得ているのだと思います。

 

 こころの問題と言えば震災の時のように鬱になる人たちもいます。コロナ鬱は感染の恐怖におののいてなる場合、自粛やマスコミ報道によるストレスや不安、感染が蔓延することによる経済的社会的不安などが原因とされています。激増しているようです。あるクリニックでは患者の八割以上がコロナ鬱だったそうです。精神科医は情報を遮断し、明るい未来を予測して気持ちを明るく持つ、感謝の気持ちを持つように患者さんにアドバイスしているようです。しかし、そんなアドバイスをしただけで明るく気持ちを持つことや感謝の心を持つことが出来るのでしょうか。

 コロナ陽性者のうち、98%は日本の場合、無症状または軽症で自然免疫で治ります。そして感染拡大、と毎日絶叫していますが陽性者は多いものの、四月に比べたら死者は七月は十分の一でした。明らかに数字を見ますと弱毒化しています。これは全世界的な傾向です。

 楽観論と言われてもいい。それを見て、あとは自分の生死は神様のもの、生きるも死ぬもかみのため、神の手の中のもの、委ねて生きよう。賛美を歌ったり、み言葉を握って立ったりして信頼の中に立とう。それだけが唯一の処方箋な気がします。本当にこんな時だからこそ、信仰は光であり、器で隠したり寝台の下に置くのではない。ともかくすくっと立って、力を抜いて、輝かしていきたい。輝かしていくべきである。本領の発揮どころなんです。みんなと一緒に揺れ動いてはダメなんです。やることをやってね、どっしり構えて神様に全託していく。その揺れない人、揺れない態度こそが、光になっていくのだと思うのです。それを見て何人かが揺れないでいてくれたらいい。信仰の光を感じてくれたらもっといい。みなさんも、信頼の光、信仰の光、それを掲げて生きて下さい。

Copyright

© 横浜聖霊キリスト教会

Call us:

045-859-9580

Find us: 

横浜市港北区綱島西2-15-1シェブロン第二ビル2A

This site was designed with the
.com
website builder. Create your website today.
Start Now