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未整理な自分をイエスにささげる ルカ7:36-50

 主イエスを愛することについてのメッセージの二回目は「罪深い女の話」であります。

 ファリサイ派の人が主イエスを食事に招いたので、主イエスは応じて行かれました。そこへ一人の女性が唐突に乱入してくる、そういう物語です。

 私はこの物語を男性牧師たちが語るのを聞いて、いつも物足りない思いをさせられてきました。女性牧師でなければ語り尽くせない要素があるのを痛感させられる物語です。

 この女性は乱入してきて後ろから-前からではないのです。イエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙で濡らし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油-他の福音書の記事ではナルドの香油で300デナリオン=300万円とも書かれています-を塗ったとあります。

 その女の人を見てパリサイ人たちは心のうちにイエスの預言者性を疑った。なぜなら律法を厳格に守るパリサイ人たちにとって、この女性は人間の数にも入らないどころか、豚同様かそれ以下の存在だったからです。

 この人は罪深い女、と呼ばれていました。罪深い女とは、通常の金銭的な罪やそれこれの罪をさすのではありません。聖書がこの表現をする時には性的な罪を負った女性のことをさします。おそらくは売春を生業としていた女性でありましょう。当時の男性社会の中で女性が一人で生活することは殆ど不可能なことでした。夫が何らかの事情で亡くなったり、あるいは夫が暴力を振って逃げ出したり、あるいは夫に三行半を書かれて棄てられたら、そして親族の支援が受けられなければ、女性は簡単にそのような生業に落ちるしかありませんでした。買春は律法で禁じられていたものの、実際には行われており、男性天国で社会的に大目に見られていたようです。

 この人はつまり、好むと好まざるとにかかわりなく、性のサービスを男性に提供することでしか、生活できない人でありました。そしてそのために、サービスを提供しながらも男性社会から宗教的に罪深い、と言われなくてはならなかった人なのです。

 この人のイエスに対する愛情表現はかなり唐突で、屈折していていろいろなことを感じさせます。まず今日はそこを読み解いて見たいのです。

 この人はイエスの後ろから近寄りました。それはイエスに正面から近づくことのできない自己価値の低さを表しています。聖書ではたとえばハンセン病の人でも、男性はイエスに正面から近づきます。しかしこの人や、長血を患った女はうしろからおずおずと近づきます。

 また足を抱いて涙を注ぎ、髪の毛でぬぐうというのも、頭を低くするのですから、自己価値の低さを表現しています。体を抱くことは出来なかったのです。この人は自分を価値のない存在としか思えていないのです。

 当時は男性と女性の地位の差は歴然としていましたし、相手が尊い人だ、というのでこの表現になったのかもしれませんが、それでも、奇妙な行動です。ここでひとつ考えなくてはならないことは、性というものが女性に及ぼすアイデンティティです。

 性というものは男性にとっては征服であり、快感です。しかしながら、女性にとっては慎重に安定した関係性で営まれない限り、他者による侵略であり破壊であり、自己疎外であり、被害になりえます。男性は自分の欲求にしたがって行動し、相手も喜んでくれるに違いないと勝手に思います。しかし、女性にとって、それは第一に自分の体のコントロールを失う体験であり、安定した関係以外では、喜びにつながりにくいのです。そのようなことが繰り返されることで、女性は自分の存在を無力なもの、として体験してしまいます。相手の思うままにされるしかない自分として自分を形成してしまいます。性は本当に女性にとっては微妙なもので、結婚生活の中でさえも、望まない性関係を強いられますと、自分を無力なもの、そして汚れたものとして感じることになるのです。女性にとって自己価値を上げる作用がなく、却って下げやすい。それが性なのです。レイプ被害にあったある人は、本当に自分が汚いと語っていました。異性関係の多かった友人にもそういう評価の人はいました。最近読んだ戦時中の性接待をさせられた人たちもそうです。本当に尊厳を失わせられてそのようなことは語れないのです。

 そしてそのようなことを生業としていると自分に対する無力感が強くなることが、想像できます。望まない相手に、望まないやり方で好き勝手に体のコントロールを失わされる。それが日常であったでしょう。

 そしてそれだけではなくて、売春婦ですから、男性が日常においては自分の妻には要求できないような、望まない、恥ずかしいサービスを強いられることも多かったでしょう。そのようなことはまた、自分の価値を下げてしまいます。

 本当に自分を、嫌な言葉ですが、男性の排泄物にまみれた存在としか思えなくなった女性。また周囲からもそのように見られている女性。それがこの人であったでしょう。

 このひとのイエスに対する愛情の表現の仕方にも、通常の家庭人である女性なら決してしない、出来ない、生業と関係のあるやり方、体を使った日常のサービスを反映したやり方があるのが感じられます。当時は道端で見知らぬ男性と女性とが会話するということも考えられない社会です。サマリアの女の話などは破格な話なのです。体に触れることもとんでもない。そんなタブーの中でこの愛情表現ですから、ずいぶんと社会的には派手な、宗教的には罪深いやり方です。

 この人は自分の人生の傷と罪を全て持って、イエスの前に出た。自分の身体、自分でも肯定的に捉えられない身体をイエスの前に捧げた。自分には毎日男性に奉仕しているような罪深いやり方でしか、イエス様にお仕え出来ない。だから自分にあるものを捧げた。自分の罪を握ってはいなかった。自分の傷ついた人生を自分のものにしては置かなかった。神の前には到底出られない自分を、言い訳も一切せずにただ、捧げた。三百万円のナルドの香油はこの人の全財産だったのではないでしょうか。文字通り体を張って屈辱に耐えたお金をその惨めな日々と共に捧げたのです。

 主イエスはそれが一瞬で理解出来た。彼女の行動の意味が理解できた。彼女の奇妙な行動を、とても優しい視点で解釈しています。イエスには彼女の奇妙な行動の裏にある愛が痛いほど理解できた。風俗嬢風の愛情表現であったとしても、その裏にあるものをがっちりと受け止めた。「私に示した愛の大きさ」それはこの人の傷ついた、罪にまみれた、さげすまれた人生からあふれ出た、全身で愛する表現、だった。それが捧げられた時に主は喜びを感じられたのです。

 

 放蕩息子のたとえ話をある時読んでいました。放蕩息子の父のもとに帰る理由は、「おなかがすいて飢え死にしそうになっているから」でした。本当に自己中心の、罪深い理由でしか父親の元に帰らない。しかし、そんな理由でも父親は構わなかった。神は人間が帰ってくる理由は問わない。ただ帰ってくることだけを喜ぶ。この人の愛情表現が罪深い、とは言わない。「愛の大きさ」と見て下さる。神の見方はそのような見方なのです。

 イエスはこの女性に罪の赦しを宣言なさいます。何故イエスが罪の許しを宣言することが出来るのでしょうか。このような人の罪をただこの一時だけで許すことが出来るのでしょうか。

 それはイエス御自身が彼女に代わって彼女のために、地上で一番残酷な死を引き受ける決意が出来ているからなのです。イエス様が罪の許しを宣言する時はそういうことなのです。私はあなたの愛がどんな形でもうれしかった。だからあなたは行きなさい。私があなたの罪を引き受けるよ。あなたに代わって審判者である私が、裁きを受ける。あなたをこんな目にあわせた社会、その中で生きてきたあなたの罪を引き受ける。あなたのために私はずたずたに身を引き裂かれて十字架で死んで行こう。そしてあなたに命を与えよう。神はそういうお方なのです。

 この物語から私たちはまずあるがままの自分をイエスの前に置くことを学びましょう。傷と罪は自分で握っている限りはそのままです。今日の女性は自分の本当に恥ずかしい人生を捧げました。彼女にも自分を正当化するロジックはないわけではなかったでしょう。自分はこうしなくては生きられないという。傷を数えたまま、自分は罪深い女だ、と言って自己憐憫に生きたり、自暴自棄になることも出来たでしょう。

 しかし、彼女はそのような言い訳をしなかった。何が悪いのか悪くないのか、整理もついていなかったでしょう。しかし、自分の存在のありかたは苦しく、自己価値も低く、そのままでは生きられなかった。だから自分の有り金と傷と罪だらけの人生の全てを捧げた。私たちは言い訳をしたがる。灰色の領域を残しておきたがる。しかし、灰色を残したら、イエスのもとへはいけません。ここは自分は悪くない、社会のせいだではなくて、これは皆しているから、ではなくて灰色を残さず述べてイエスのもとに参りましょう。この女のように整理もつかないまま、ただ、全身で突っ込んでいく。それが大事なのです。

 次に私に代わって裁きを負われ、体を裂かれた審判者である神の愛を受け取りましょう。私にそして生きなさいと言って下さる神の愛を心から受けとりましょう。

 最後に本当に自分のたどたどしい仕方で、この女のような心からの愛をイエスにささげましょう。イエスは心からの愛を喜ばれます。自分なりの他から見れば恥ずかしい言葉ややり方でイエスに愛を示すことを大切にしましょう。イエスにあって、他の日本人から恥ずかしいと思われてもいいので、思い切って日常の中でイエスに愛をお返ししましょう。

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