聖霊と共に生きる厳しさ

使徒言行録5:1-11

 使い分けとか、場所によって顔を変えて生きるとか、そういうことを礼賛する社会に私たちは生きています。臨機応変とか如才なく生きるとか、そういう生き方の器用さが求められるということです。面従腹背、前川元文部科学事務次官の座右の銘はこれだったそうです。旧ソ連のあり方に耐えて、自分の天下になった時にペレストロイカを打ちだしたゴルバチョフも面従腹背の代表者と言えるでしょう。これらの生き方はそれでも、自分の良心に信念として握っているものがあって、個人の思想はあって、集団や組織の論理との間での軋轢というものをそういう態度で回避して生きているということですから、まだしもやむを得ない面があるのでしょう。

 それに対して今日の使徒言行録の登場者アナニアとサッピラもひとつの使い分けをして、失敗していきます。それは一体どのような使い分けだったのでしょうか。

 使徒言行録の今日の箇所の使徒たち、信徒たちは前提として非常な畏怖を神様に抱きながら生きていました。今ここにリアルに神様がいて、御業が起こされている。今日も誰かが癒された。悪霊が出ていつた。ここに神様来ているんだ。ここに聖霊の力がある。そういう張りつめた緊張感、畏れの念ですね。

 だから今この時には普段ならあり得ないような生き方が信徒たちの普通だったわけです。持ち物や家や田畑を売ってそのお金をみんなで分け合って暮らす、誰も貧しい人がいない。もともと絶対に貧富の差はあった筈です。それが古代社会です。奴隷も売春婦も議員さんまでいた筈です。不在地主で土地を貸している人たちもいたでしょう。そういう不在地主さんみたいな人は畑を売って使徒たちの足元に置くわけです。

 みんながやるから私もやる、そうすることがたぶん、礼賛されるやりかただったから。人の目を気にしてやったのかもしれません。新しい教会の中で相応の地位を得ていこうという計算が働いたのかもしれません。一組の夫婦は自分たちも土地を売りました。そこまではよかった。ところがこの二人は土地代の全てです、といって一部だけを献金するのですね。代金はこれこれでした、全額を献金しました、と言ってね。

 それに対してペテロは叱責の言葉を浴びせる。売って献金しなかったなら、それは別に問題ではなかった。無理して売る必要はなかった。売っても捧げない自由はあった。はっきり一部を捧げますということは出来た。半分でも問題はなかつた。

 しかし、売ってすべてを捧げたという礼賛のために、教会にいい顔をしておくために、自分たちの良心、教会の中にありありと臨在する神を裏切り嘘をつく。神様がおられるのに、神様に嘘をつくのは重い罪なのですね。ここにおられるのが重いくらいなのに、それを無視して嘘をつけるということがとても、問題になるわけです。

 今ここに本人がいるのに、その人を無視してその人の気に入らないことを言ったりやったりする。ましてや、私なら私に力をこめて手間暇かけて支援や協力をしてくれている時に、その人を裏切るような言動を私がしてしまうとする。それは大変な裏切りですよね。使徒言行録のこの時点はこれから2000年以上教会が歩き出そうとする、神様の聖霊が傾注された大切な大切な時である。普通の時とは異なる時です。これから人類の救いを沢山成し遂げていこうという大切な時です。その最中に神様を裏切る。ペテロの問題にしたのはそこなのです。イエス様の十字架の救いが完成して神の霊が来ているそんな大切な時に、人間がまた、罪を犯す。まるでアダムとエバの話のようですね。リンゴ食べる位大したことではないでしょう。しかし、神との大切な関係を破たんさせる行為になってしまったわけです。

 使徒言行録が教えてくれるのは、聖霊と共にある厳しさ、です。今ここに神様の清い御霊が来られている。私たちと共におられる。その時に私たちはどうあらねばならないのか、ということです。外ではいいことを言ったりやったりして、個人的な生活の中で、神様に背いた自分勝手なロジックを生きることはある意味、許されないということです。教会で敬虔な証をしながら、プライベートで違うロジックで生きるということは許されない、ということです。神様の聖霊を悲しませてはなりません。悲しませてはいけないのです。

 神様の恩寵は本当に大きいです。宇宙大に大きい。しかし、その大きな愛を人間の背きが踏みにじることが出来ます。今日の話はそういうことです。人間の罪はどこまでも大きい。人間の罪が大きければ大きいほど、神の恵みは大きい。この私が悪ければ悪いほど、十字架は輝く。恵みは増し加わる。しかし、では私たちは罪を犯し続けていいのでしょうか。そうではない、とローマ信徒への手紙でパウロもいいます。

 昔場の顔、という小説を読みました。作者は牧師さんでした。ホーリネス系の教会の役員である主人公が教会では敬虔な証をしますが、ビジネスの場ではどんなアコギなこともやる、自殺に敗者を追い込む、女も何人も抱く。そういう生き方をしていてそれを眼鏡のかけ替えで象徴していました。トランプ大統領を今では連想してしまいます。主人公のそういう生き方はやがて、破綻してしまい、最後には自殺して教会からいなくなる。しかし、誰もそのことをもはや語らないのです。

 本当に安倍さんもそして小池さんも嘘つきで、その場を取り繕う嘘を平気でつき続ける。小池百合子さんの学歴詐称の話は有名ですが、それでも都知事選には出る。嘘でもつき通していく。それはないのです。聖霊と共に生きるということはそういうことなのです。

 私市先生の自叙伝を読んでいました。私市先生は小さなことでも大きなことでも神様の前に持っていって聖霊の御声を聞く、というのですね。導きを求める、という。電車に乗るのに聖霊の御声を聞いて、急ぎなさいと言われたのに急がなかった。そしたら、二度遅れてしまった。三度目は従ったら間に合った。私はあまりそういうタイプではないのです。その人のタイプや神様との関係によるのでしょう、30の時に「すべての道で主を認めよ。」と言われてから小さいことで示しを求めることはしない。聖書の倫理にかなうかどうか、イエス様を裏切っていないか、そこが基準でそれさえマルなら、あとは選択した道で神を神とできるかどうか。神の前に誠実に歩むことを心がければよい、と考えてきました。迷うことがあれば迷いもそのまま神の前に包まずのべる。そうすれば道はまっすぐにされる。示しを敢えて求めない。

 大切なことは神の前に置くということです。

 聖霊と共にあることは慰めであり、力です。そして癒しです。しかし、聖霊は清める力であり、焼き尽くす炎です。使徒言行録ではかなり状況が特別なので罰が下ったように描かれていますが、今私たちと共にある御霊はそこまでのことはなさらないでしょう。しかし、悔い改められるべき罪が残されている時、何か事件を起こされて強く悔い改めを迫られたり、またそこで悔い改められないと再び三度、機会を作られて悔い改めを迫られます。灰色の領域を抱えている場合には、あるいは神様を入れない私だけの心や行いの領域を握ってしまって離さない場合には、人生の様々なステージでそれを気づかそうとなさいます。そして離すように働きかけられます。神様の愛の炎は容赦なく人を焼き尽くされるのです。そしてイエス様のみ姿がなるまで私たちをつくりかえようとなさるのです。

 どうぞ、皆さんは明け渡しをしてみてください。自分のあらゆる領域に聖霊が入って来て下さるように、私の全ての領域を支配して下さるように、祈ってみて下さい。それは怖いことではありません。明け渡すと人はとても楽になります。安息が与えられます。すべては主がなさって下さいます。

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