福音を掲げて生きる

ローマの信徒への手紙1:16

 今日の聖書箇所でパウロは福音を恥としない、とすかっと言いきります。パウロは信じたせいで、伝道者となったせいで迫害にあいましたし、死にかけたこともある。自分の元の仲間はもちろん、家族や親族からも分かれざるを得なかったに違いありません。しかし、パウロは言いきる。福音を恥としない、と。自分は福音を名誉にする。掲げて生きると。

 それはどうしてなのか。どうしてそう言えるのか。それはユダヤ人にもギリシア人にも誰にでも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからだ、と。福音はデュナミス、神の力だというのですね。パウロがそんなにも耐え抜くことが出来たのは、すっきりすかっと立つことが出来たのは福音が力であることを見て来たから、なのです。

 この力、というのは勿論、信じた人の人生を変えてしまうちからです。パウロ自身が変えられた人でしたけれども、信じた人の人生が変えられるのをパウロは見て来たのでしょうね。そしてこの力は教会共同体の中で起きる不思議な御業、神の介入、奇跡行為のことをパウロ書簡では指します。

 そういう神ご自身の人間への介入、があるからそれを体験させられているから、私は福音を恥としない、んですね。そこがリアルだから、恥としないんだ。

 ここで読み取ることが出来るのはまず、福音と力とは、分けることの出来ないもの、力を伴ったもの、力そのものだったということ。そしてこの力をベースにして、根拠にして、掲げて生きる生き方が導きだされる、ということなのです。

 力のないキリスト教、というものを私はずっと見てきました。私はその中で育ってきました。聖霊の働きを信じない教会では神の力を信じないので、どうしても力のないキリスト教になってしまいがちです。

 例えば最近ではいたしませんが、明らかに悪霊の問題があり、聖餐式になるとおかしくなる女性が礼拝に来ているとします。その時に一言悪霊追放の祈りをすれば楽になるのに、カウンセリングを延々と続けて行く、と。例えばそんな感じです。それです。勿論カウンセリングも大事ですが、神様の力でたちまち楽になるものもある。

 大胆に祈っていけば癒されるのに、癒しを期待しないから全く本気で祈れない。結果も起きてこない。そんな傾向もどこにでもあります。

 さて、この聖句を取り上げたのは私自身の反省の意味があります。私自身福音を恥としない生き方ができているのだろうか。福音に伴う力を信じて掲げて生きられているだろうか。コロナ禍の中で縮まっていないだろうか。できなくなっていないだろうか。これは最近しきりと反省させられることの一つです。

 はっきり申し上げまして、縮まっている。出来なくなってきている。神様に期待できているのだろうか。弱くなっている。皆さんの信仰に支えられてばかりいる気がしています。

 私達の教会はいろんな癒しを体験していますね。メンタルの癒しもありました。それらは本当に福音の力、福音に伴われる切っても切れない聖霊の力なのです。

 もっと具体例を挙げますと、Mさんのお父さんの件なんかは、癒しやお父さんの救いが起きてもうちなら不思議がないのです。Mさん自体がJというもの、に会っている。そういうことが起きても何ら不思議じゃない。メンバーの友人が来てくれて、聖霊に触れられて信仰を持つようになっても不思議でないのです。みんなそうして信仰に入ってきたのですから、そういうことを私自身が期待しきれていない。そういう弱気虫がみなさんにも伝染していたらもうしわけないと思います。

 この力をベースにして、それがあればこそ、私達は困難な日本社会に福音を掲げていくことが出来る。恥としないで立つことが許される。私一人のことを考えましてもクリスチャン歴は長いですが、この教会に転居してからでしょうか、日常に立ち向かう底力がついたような気がするのです。神様のお働きが共にある。こんなこともある。あんなこともある。そういう中で、だからこそ、私はこんな困難に置かれているけれども、福音を恥としないで掲げて、語って素晴らしいと言いきって生きることが出来る。そう立てるのです。

 福音は素晴らしい、教会に来てみたら。どんな人でも、神様がここでその人に応じた出会い方をして下さるから、教会に来てみてと何のためらいもなく今ひとたび言いたい。胸を張って言いたい。

 これからますます、福音を掲げて生きていくことは重要になります。重要なんだが同時に困難にもなりましょう。津久井やまゆり殺傷事件では日本社会の崩壊の音を聞いた気がしました。女性ホームレス殺傷事件もです。

 津久井では障害者は死んだ方がいいと犯人はいいました。それはヘイトクライムであり、新自由主義で全体主義化する社会の空気を愚かな犯人が代弁して起こした事件だったと思いました。この犯人のことを読んでいて、私は大学二年の時のN君を思い出しました。N君もほぼ同じ主張を繰り返していたからです。しかし彼は語り合いを続ける中でそうは言わなくなりました。私は彼に疑問を投げかけ続けたからです。その論理で言うとあなたも死ななきゃいけないよ。あなたはどこにいると思っているの。優生思想的な考え方で本当にいいのか?と。今彼の信仰はどうなっているのか分かりません。しかし、少なくともヘイトスピーチする青年ではなくなっているのは確かです。それだけでも私は最低限のことは出来たかなと思うのです。福音を掲げて最低限のことは出来たのではないかと。

 きちんと福音に基づいた価値観をぶれないで打ちだしていく。求められれば信仰をきちんと語っていく。そしてその機会を与えて下さるように、聖霊に心開いて求めていく。力があるから神様の力を体験することが許されているから、それが可能である。可能にさせられている。そこに立って力強く生きていきたいと思うのです。