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祈りに動かされる神

マタイによる福音書15:21-28

 私達の大学では一部対面授業解禁で、ゼミは月に一度対面授業をすることになっています。金曜日が一限、その日だったのですが、、、学生が四人も来ない。東京に行くとコロナがうつるのではないか、と親が危惧して出さない。ハイブリッドの授業は保障されているのですが、オンラインの授業なら金を返せ、という運動が起きていたのは記憶に新しいのに、対面授業を実施したらこのざまです。

 そしてなお、絶望感を感じたのは佐々木炎先生の昨年出た著書、暴走族からキリストに出会って福祉へ、そして牧師へと召命されて、さまざまな人々に出会って見取りをしていく本なのですが、それをブックリポートさせたのですが、見事にキリスト教をスルーしてリポートしました。宗教は分かりません。といってね。

 わからないのは仕方ない。しかし、分からないなら書いてあることを日本語として読んでリポートするだけでよいのです。それもしていなかった。ともかく、読むのも嫌、なのですね。そして宗教には反発があります、と付け加えていました。きちんと書いてあることも理解しないまま、反発をするのは批判にはなっていませんし、大学で学ぶ態度だとは思えませんでした。知性の劣化ですね。ヘイトスピーチと同じです。

 かなり私は溜息をつきました。キリスト教主義大学といいながら、あまりに遠いところにキリスト教はある。イエス様は置かれている。そのことに、分かってはいたことですが、途方に暮れたというのが正直なところです。

 この人たちは一生何も知らずに、生きていくのだろう。そして死んでいくかもしれない。それで本当にいいのだろうか。そう思いました。同時に一般的に圧倒多数の日本人にとって、明治以来、最も遠いところにキリスト教はあり、偏見によって封じ込められているのを感じざるを得ませんでした。

 どうしていいのか分からない、というのが日本のキリスト教の将来です。一人一人の毎日の中で神は働いて下さっている。それを私たちは体験します。しかし日本人全体を御救いになる気持はないように思えます。信仰などなくても何とかやっていかれる。誰もが元気なうちはそう思っています。誰も神様を求めようとはしません。しかし一度人生に危機が訪れると、セーフティネットがないのでどんどん自殺します。有名人の自殺も珍しくなくなりました。神様の救いの計画の中で日本は外れているのではないか、そんなことがどうしても頭を横切ります。

 私たちは日本のキリスト教のために祈らなくてはならないと感じます。しかし、神様の救いの計画から外れていたら、どうにもなりません。もし日本は外れていて、少なくとも後回しにされていたとして、神様の救いの計画は変わることがあるのだろうか。

 今日の聖書の箇所はカナンの女、つまり異教の女性がイエスに救いを懇願する物語です。娘が悪霊に執りつかれて、苦しめられているというのです。具体的にはそれ以上は分かりません。

 女は叫びながら付いてくるのに、イエスはとても冷淡です。何もおっしゃらない。そして弟子たちが乞うと、女に向ってとても冷たいセリフを吐く。「私はイスラエルの家の失われた羊の元にしか遣わされていない。」失われた羊とは牧者を失って神に導かれることもなく頼りなくさまよい歩く様子を言います。イエスはイスラエル全体がそのような状態にあると考え、自分の使命はまずそのようなイスラエルを導くことであると言うわけです。仔犬は家の中で飼われたペットの犬でしょうから、犬は異邦人に当てられた蔑視の言葉ですが、随分柔らかくなっていて、ユーモアを感じさせます。

 何故、このような冷たいセリフをイエス様が吐かなくてはならないのか、私はずっと疑問でした。女の信仰を試そうとしたというような説明がなされますが、それも可能性としてはあるものの断定は出来ない。何故他の病気の人たちにはイスラエル人ならば素直に応じられるのに、異邦人だけは試さなくてはならないのか、説明は付きません。

 一説にはティルスとシドンという地方には治療神の神殿があり、そこには手術を行う外科医の集団がいた。ヒポクラテスという有名な医師もそこの医師団にいたのですね。縄張りがあった。だから敢えて治療行為をしていたイエスはそこには近寄らなかった、というのですね。

 異邦人はイスラエル人にとってどんな存在だったのでしょうか。ユダヤ人にとっての異邦人はそんなに一つの態度でくくれるような存在ではなかったようです。紀元後七十年以降、特に態度が厳しくなって行ったため、それ以前のイエスの時代の様子はあまり直接的に知ることは出来ませんが、多様なものであったようです。多くのユダヤ人は異邦人と接触することをまず、好みませんでした。理由の第一は偶像礼拝でした。次に倫理道徳的基準の低さがありました。性的な乱れ、動物との性交渉、堕胎、赤ん坊の間引きや奴隷殺害などから距離を取ろうとしました。第三に様々な儀式上の清さがありました。

 最も厳しい人たちは異邦人はいずれ罰せられるし、改宗を試みることは無意味だと考えていました。もっとも寛大な人たちはある異邦人たちはイスラエルに組み込まれ、祝福と救いを受けることが神の意志であると考えていました。それ故改宗者を探し求めることは正しいと信じていました。

 異邦人伝道者であったパウロのような教会は別として、マタイ福音書の書かれたマタイ教会はユダヤ人のキリスト教会でした。そこではパウロのように「ユダヤ人も異邦人もない」などというところへは考え方は行ってはいなかったのです。ご存知のようにマタイ福音書はマタイ教会の人たちに向けてそこで読まれるために書かれています。そこでの課題に答えを出すべく書かれています。

 マタイ福音書の教会は基本的にユダヤ人の教会でしたから、「メシアはイスラエルのためだけにきた」と信じている人達が居ました。イエス様の初めの答えはそのような教会の中の考え方を反映しているように思えます。しかし、教会の課題として異邦人への伝道をどう考えていくか、が緊急の課題でした。そこに答えを出すために書かれたのが、この記事であったと考えられています。つまり、異邦人を排除してしまうのではない、という考え方です。この記事を通して神様の計画が開かれていきます。女はイエス様の言葉に反抗するのではなく、「私は犬ですよ。しかし、ワンコでもね、パンくずは貰います。」というユーモアを交えて自分が仔犬であることを是認しながら、それでも熱心に懇願し続けます。そうして遂には彼女の願いは聞き入れられます。イエスの気持ちは動かされたのです。

 神様の救いの計画の中で、まずイスラエル人にというのがあった。しかし、それは女の熱心な懇願によって変えられます。なりふり構わずイエスに突進し、懇願する夢中な祈りを本当にイエスは喜ばれました。あなたの信仰は立派だ、とさえ言われました。

 神は信仰の祈りを待っておられる。そこで計画を喜んで変えられる。ルカ福音書の神を恐れず人を人とも思わない極悪非道な裁判官とうるさく正しい裁きを求めるやもめの物語でも、神が気持ちを動かされて計画を変えられることが語られています。絶えず祈れば、神は必ず聞き入れて下さる、ということです。

 すべての祈りは神に聞かれています。それを私たちは信じています。しかし、祈りが本当に聞かれて答えられるのかというと、答えがなかなか来ないことによって私たちはいつしかそれを信じることが出来なくなっていくことがある、というのを告白しなければなりません。

 しかし、救いの計画のようなことでも、神はそれを広げられます。マタイ福音書の最後では「すべての民を弟子にしなさい」とはっきりと書かれています。神様の救いの計画が拡げられている。

 日本は救いの外にあるように感じます。少なくとも後回しであるように感じられます。しかし、たといそうであっても、神は計画を変えられる。喜んで変えられる。今日の聖書の箇所の女のような、なりふり構わない信仰を喜ばれる。待っておられる。そのような祈りを与えられて参りましょう。あきられないで祈り続けましょう。

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