根源的事実を喜ぶ

ルカによる福音書10:17-20

 この間の私のメッセージではイエス様は山で変貌なさった後、里に下って何をなさったのか、それは三福音書共通していますが「悪霊追放」なのです。てんかんらしい子どもの親は残しておいた弟子たちに悪霊を追放してくれとたのみましたが、追い出すことが出来なかった。そこでイエス様が追い出しの業をする。神の光と力を受けて、真っ先にすることが悪霊追放なのです。

 ここで理解されることは、「オバケ退治」は山から下りて一番に手をつけるような、象徴的で正統的なメシアの仕事だった、ということです。イエスの生涯には実に多くの悪魔払いの記事が出て来ます。例えばマルコでは伝道を始めて「神の国は近付いた」というやいなや、矢継ぎ早にお化け退治です。神の国の宣教に遣わすとき、イエスは弟子たちに悪霊を制圧する権能を授けます。悪霊を追放することは、神様の支配がここに来ている、ということを人々に示す具体的で現実的な徴であったのです。今、ここに、神の支配の最前線が来ている。だから悪魔よ、出て行け!そのような宣教をイエス様はなさったのです。

 これはいわば霊的闘いの信仰です。現実は様々な悪魔の力が入り込み、支配された場所である。それは普通、見えない形でしかない。抑圧、差別、不正。しかし、悪魔つき、という形では悪魔は見える形で存在している。それを叩くこととは神の国の領土を目に見える形で広げることだったのです。

 今日のこの記事でも72人は10章のはじめに遣わされて行く。九章では12人だったのですが六倍に増えていることに注意してください。そして一定期間を過ごして帰ってくる。その報告が本日の記事です。72人の弟子たちは派遣されて帰って来て、イエス様に報告する。それは「あなたのお名前で悪霊が出て行きました。」ということです。すごいですね、本当にオバケは出るんですね。いや、本当にすごいです。こういう感動を報告するのです。無邪気に現象を喜んでいる彼らがいる。

 それに対するイエス様の答えはどういうものだったか。まずイエス様自身の神秘体験が語られる。私はサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。私はサタンに勝っている。だからあなた方は悪魔の力に負けることなく、害を及ぼされることもない。そういう権威が授けられている。

 そこで悪霊が服従し出て行くことを喜んではしゃぐのではなくて、と辛口の注意を弟子たちにします。この箇所についてかなり間違った読みをして来ていたな、と今回私は気付きました。悪霊が出て行く力が与えられたことはどうでもいいから、天に名が記されている、つまり神によって自分たちが受け入れられているというベーシックな信仰的事実の方が大事ですよ、と読まれます。前の記事の内容は棄ててしまって、殆ど無視されてしまって、そう読まれます。しかし違うのです。

 ユダヤ人は心と身体、感情と行為を分ける発想を持たない民族です。従って名とその人の行為とは区別されません。全体として一人の人、一個の存在です。ですから名が受け入れられている、ということはその人の行為、その人の存在がまるごと受け入れられているということです。ここでイエス様がおっしゃりたいことの真意はこうです。オバケが出て行ったという現象ではなくて、悪霊を屈服させたカリスマが付与されていることと、そのもとになった根源的事実、あなたたちの存在そのものが神に受け入れられていること、それを喜びなさい、ということです。ある結果や現象が起きるのは、神からの賜物が付与されているということ、神の力が働いているということであり、その最も深い事実としてはその行為とその行為者が神に受け入れられているからである。そこをこそ、喜びにしなさい、ということをイエス様はおっしゃりたいのです。

 私たちは日常的に聖霊の賜物の顕われを体験させられます。例えば悪霊との闘い。癒し、そして聖霊の付与。

 それらはこの現実で起きていることの根源的な部分を垣間見せてくれます。自分たちが神の国の最前線に立たせられていることを容赦なくつきつけて来ます。私たちはイエス様の名によってそれらのことをさせられ、そしてイエス様の名がどれだけ強く力があるかを体験して行きます。

 何だか分からない、説明の出来ない力…結果ではなくてそれを喜ぶこと、あ、ここに主が私と共に行為して下さっているということを喜び、オバケが出て行った現象、癒された現象、聖霊の付与された現象、それらは素晴らしいことですし、感謝すべきことですが、その現象そのものではなくて、その力が神様からのものであり、神様が私たちを受入れ、共に行為して下さるしるしとして、受け取っていくこと。その行為が丸ごとの私たちとして神に受入れられ、喜ばれていることを感謝しなさい、ということなのです。

 先日祈祷会でお願いしたお祈り、九州の牧師夫人について覚えておられる方おられるでしょうか。心身ともにボロボロ、不安神経症で膀胱炎による頻尿、不眠症、拒食。足が弱って歩けなくなりつつある。教会の不振。

 話を聞いていて涙が出てしまうほどなのですね。で、私は毎週三十分電話でお祈りすると約束したのです。話しているうちに体のこともそうなのですが、この人は聖霊の満たしを祈られる必要がまずあるな、と感じられてきたのです。で、まず自分の頭に手を置いて異言で祈りました。次に膀胱に手を置きました。

 終わって何をおっしゃられたか。身体全体がぽかぽかして包まれるような、不思議に温い、と言われるのです。実は祈っている私自体がクーラーの吐き出し口下にいて、汗ばんでいました。そしてやりとりしているうちに快活に笑われたのです。三回も笑われた。

 そしておっしゃった。私は半年眉間にしわを寄せて固まっていて、笑ったことなど一度もないのです。なのに自然と笑えてくるのです。不思議だ、不思議だ。まわりのひとに不幸が移りそうと言われて怖がられるほど、怖い顔をして過ごしてきたのです。とても喜んでおられたのですね。

 うちの教会なのか、私なのか、私達の与えられているカリスマなのです。定式通りといってもいい。来たな、と思いました。

 そしてね、こんなに停滞している、カリスマ行使ということでは力を落としている中で用いられたこと、用いていただいたことを感謝しました。神が共にいて下さる。そのことが迫って来たのですね。

 神のみ力が自分たちの行為を通して示される。そのことを喜び、その根源的事実として、神が私たちと勿体なくも実際に共に居て下さること、私たちを全く受入れ、ご自分のものとして下さっていることを喜べばよいのです。

 メソジスト運動の創始者ジョン・ウエスレーの最期の言葉は「もっとも大切なことは神が共におられること。」だったそうです。苦難をくぐりぬけ、沢山のことをなしとげさせられた彼でさえ、大切なことは今、ここで神が共に働いて下さることだったのです。私たちは神の力を、神からのものとして受け取りましょう。そして私たちが神に本当に愛され受け入れられ、包まれてあることを本当に味わいましょう。私たちは神のもの、キリストのもの、存在の底の底まで神のものである。本当にそのことを心から喜びましょう。