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実から見分ける

ルカによる福音書6:43-45

 今日の箇所は良い実を結ぶ木と悪い実を結ぶ木の譬えです。木とは人間そのもの、丸ごと一人人間のことです。人間のあり方そのものです。人間の実とは言動、あるいは人生の果実といってもいいでしょう。その人間の作りだす、結実したもののことです。単純に読めば人の良し悪しはその言動で見分けられる、ということになりましょうが、もう少し深読みするならば、自分の実がいいかどうかで、自分のあり方立ち方が問われる、ということになります。

 自分の生き方のポリシーみたいなものがこれでいいのかどうか。人は点検する必要があります。本当にそれでいいのか。ある一定の年齢以上になったら、それで生き切れるのかどうか。生き切ってしまっていいかどうか。そのポリシーでまずいと感じたら、これでは生ききれない、あるいは襲い来るであろう病や死を超えられないと感じたら、大胆に改めていく必要もあります。

 昨年度本当の終活という連載を北國新聞でしました。その中に三パターンの死に方を描きました。それは生きて来たように死ぬ、人生の整理をして死ぬ、一歩踏み出して死ぬ、でした。生きて来たように死ぬは今まで、生きがいを以て生きてきた人はそれをやりながら死んでいくことです。仕事なら仕事、使命感を持つならそれに賭けていく。しかしこの死に方には悲惨な面があることに最近ある学生の母親の死を巡って気付かされました。この死に方は死を見つめられないから、逃避するからそうなる一つの落とし穴でもあったのです。それに比べれば後の二つは死を少なくとも見つめて締めくくりをする。しかし、それは壁を超えることにはどうにかこうにか間に合っても、死の間際にそれをするのでは勿体ないというか、実がなるところまではいかないように思うのです。

 先日、しんどい身の上相談をしました。その方は同い年くらいの大坂の女性です。中学の先生をしていました。

 その方は優等生で地方の国立大を出て、同級生の連れ合いさんと結婚し子供もいます。一見安定した平凡そうな人生なのですが、結婚当初からお姑さんとの関係で悩んできました。一言で言えば意地悪な姑なのですね。メールには細かい日常の小競り合いが綿々とつづられていました。

 またお連れ合いさんがアルコール依存、鬱病、ギャンブル依存なのです。県立高校の教員なのですが、お坊ちゃん育ちで、飲む打つで平気で借金してしまう。500万円とか借りてしまって、相談者が埋め合わせをさせられてきた。自殺未遂もしたそうです。メールにはお連れ合いへの愛憎ないまぜの思いも語られていました。ともかく悩みと迷いがいっぱいで何一つ明るい目がないのです。

 そんな中で状況を複雑にしているのが、彼女の霊的体験でした。彼女はどんな宗教とも同じ距離を取るというポリシーです。神道が好きで家に神棚を置いている。娘さん二人はキリスト教主義学校に通ったそうで聖書も手にした。密教にも惹かれる。そういう中で彼女はいつしか、悪霊に悩まされるようになりました。身体の調子がおかしく、病気ばかりしました。霊能者に頼ってある時、お祓いを受けたら、電気が身体を通って天とつながった気がした。竜神さんが入ったと彼女はいいます。その時の感じが身体に今も残って、苦しくてたまらない。それが暴れると幻覚を見る。生活するのがしんどい。

それだけではなくて、恨みつらみも増幅してしまい、心に全く平安がない。

 じっくりやりとりして、私には霊的な体験を理解できるだけの体験があるので、あなたの中にいるのは悪い霊であること、それはあなたの抱えている課題を見ればよくわかる。あなたの実でよくわかるのです。憎しみや恨みやしんどさを本当の神様はくださらない。あなたの問題はどの宗教もよいでは、解決されないです。たとい霊能者を頼ってお祓いに成功しても、また入ってしまう。日本人一般が信仰と取る様な距離では絶対に誰にも守ってもらえない。しっかりと信仰をもって一人のお方に全てを委ねて、はじめて悪霊から解放されます。

 ほんとうの神様はあなたのために全てを下さる方。命まで下さる方。そのお方から全面的に抱えていただき全てを委ねていくことしか、あなたの問題を乗り越える道はありませんよ、といいました。信仰を持つということは悩みはあっても迷いはなくなること。うねうねと制限なく紡ぎだされる恨みやつらみから解放されなければ、悪霊はいなくなりませんよ、と。

 彼女が最後にこんなことを言いました。霊的な体験ということでは似ているけれど、こんなにも至る境地が違うのはやはり、キリスト様だけに全てを委ねているからなんだ、と分かりました。自分の育ちから今すぐに結論は出せないけれど、じっくり考えてみます、と。

 誇るわけではありませんが、やはり私の中に平安や希望というどっしりとした境地を感じられたのでしょう。それがキリストの下さる実、聖霊の実なのです。

 木は自分で実を生らせることは出来ません。天から与えられる水分や養分でもって、実を生らせていただくだけなのです。イエスキリストから豊かな水分や栄養を頂いて日々生かされて行く。ただイエスを愛し、イエスにつながり、イエスからすべてをいただいていく。そのことだけを心掛けていきましょう。

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