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圧倒的な軍事力の猛威に勝つイエス

マルコによる福音書5:1-20

 弟子たちは嵐を通り抜けて、イエス様と共に伝道の最前線に向かいました。向かった先はゲラサ人の地方とされています。しかしこの地方はあまりにガリラヤ湖から離れていまして、現実的ではないとされています。ゲラサとかガダラとかゲルガサとかその場所は言われていますが、謎のままです。三世紀以来クルシという場所がその場所とされていまして、教会や修道院が建てられていました。

 そこに墓場を住処としている悪霊つきがいました。この人は異教徒で、おそらくは精神障害を起こして共同体から追放されていた人であったでしょう。その人の住処としていた墓場とは、湖近くの岩山の斜面にあいた横穴群であります。日本や西洋の墓場ではありません。洞穴ですから、雨露をしのぐことが充分出来たわけです。激しい自傷行為があったり、叫び声をあげていたことも記事から分かります。

 イエスを見るとその男がなのか、その男に憑いている悪霊がなのか分かりませんけれども、ひれ伏してイエスに恭順の意を表し、自分に構わないようにと願いました。ひれ伏す、というのは圧倒的な優位を相手に認める行為です。「いと高き神」と言う言葉は旧約聖書では主として異教徒がイスラエルの神に対して用いる言葉でした。イエスはこの悪霊を男から追放しようとしました。悪霊は名前を名乗るように言われるとうっかりと自分の名を名乗ってしまう。名前を知る、ということは相手を支配する力を帯びることです。

 この地方は異教の地であったので、豚が飼われていました。豚の中に入ることを願ったので、許したら、豚は二千匹ほど湖に飛び込んで死んでしまいました。この話しは実はユダヤ人からすれば笑い話であると同時に不気味な話だそうです。穢れた場所である墓場で異教徒である不気味な悪魔つきの男が絶望的な生活をしていて、そこから出た悪霊たちが穢れた動物である豚の中に入っておぼれ死んでしまった、という話だからです。

 さて、そこで名乗ったのは「レギオン」という名の悪霊でした。レギオンとはローマの軍隊のことでした。ローマ陸軍は、時代によっても異なるが、ローマ市民権を持つ者からなるレギオー(legio、軍団)およびローマ市民権を持たない者からなるアウクシリア(auxilia、支援軍)に大別することができました。レギオー(軍団)は陸軍の編成単位でもあり、個々の軍団に支援軍が付随して戦闘を行なっていました。

 編成単位としての1個のレギオーは10個のコホルス(cohors、歩兵大隊)に、1個のコホルスは3個のマニプルス(manipulus、歩兵中隊)に、1個のマニプルスは2個のケントゥリア(centuria、歩兵小隊・百人隊)によって構成されていた。すなわち1個のレギオー(軍団)は、60個のケントゥリア(百人隊)からなっていました。従って計算上は6,000名の軍団兵がいたことになります。ローマに対する敵は、カルタゴ・パルティアなどの大国家を除けば、ほとんどが規律などない武装集団だったため、整然と組まれた陣形と統率された攻撃にたちどころに粉砕されてしまいました。また、大国といっても大抵は傭兵が中心であるため、市民で構成されたローマ軍に士気の点でも利があったことは否めなかったようです。

 そして豚の中に入って二千匹も大量死させたということは、この悪霊の猛威は強く、犠牲として大量死を求める、大量の殺戮を求めるものだということです。大量の殺戮を求める力強い軍隊の悪霊、それが狂人に憑いていたもの、でした。

 私は何故こんな悪霊が狂人に憑いていたのか、そんなことになったのか、この人の人生をプロファイルしてみました。この人のことを考える要素は他にもあります。それは鎖でつながれていたのに、引きちぎりながらも村落へ向かわず、墓場に住んでいたこと。そしてそんなに大量死をもたらすような悪霊を抱えながらも、他者を傷つけることなく、大声でわめきながら自分を傷つけていた、ということです。一体何をわめいていたのか、何故自分を傷つけたのか。

 私はこの悪霊が「ローマ軍」と名付けられたことに大きな意味を感じます。それは沖縄や横須賀で「米軍」という名前のオバケが出るようなものです。三沢や各務ヶ原で「自衛隊」という名のオバケが出るようなものです。

 私はこの男は軍隊に絡む何かの被害者であると思うのです。軍隊に関わったあるいは戦闘に関わった故に、精神を病むに至った男であると思うのです。つまりPTSDの被害者であったということです。

 戦争に出かけるということは、心病むということです。かつて集団的自衛権に絡んで私は沢山ネットの記事を見ました。

 徴兵制が敷かれている韓国では四日に一人の兵隊が、自殺しているのだそうです。

 そして自衛隊では1994年から2008年までの15年間で、1,162人もの自衛隊員が自殺しています。2004年度が100人、05年度101人、06年度101人と3年続けて過去最悪を記録し、2006年度の10万人あたりの自殺率は38.6で、一般職国家公務員の自殺率17.1の2倍以上にあたります。

 イラクへ派遣された陸海空の自衛隊員は、5年間でのべ1万人にのぼり、このうち帰国後28人が自殺していたことと、睡眠障害や不安など心の不調を訴えた自衛隊員が、どの部隊も1割以上にのぼり、3割を超える部隊もあったそうです。 陸自の自殺率は386.96、空自は186.704となります。警察庁の発表によると2013年の日本の自殺率は21.4なので、陸自は18倍、空自は8.7倍も自殺率が高いことになるのです。

 イラク派遣から1カ月後に自殺した20代の自衛隊員の母親が取材に応じ、「(派遣中の任務は宿営地の警備だった息子が)『ジープの上で銃をかまえて、どこから何が飛んでくるかおっかなかった、恐かった、神経をつかった』、夜は交代で警備をしていたようで、『交代しても寝れない状態だ』と言っていました」、「息子は帰国後自衛隊でカウンセリングを受けましたが、精神状態は安定せず、カウンセリングでも『命を大事にしろというよりも逆に聞こえる、自死しろと言われているのと同じだ、そういうふうに聞こえてきた』と言って、この数日後、息子は死を選びました」と語っていました。 

 実際に戦闘に入った米軍はもっと深刻です。アフガン帰りの軍人たちは毎月平均17人の割合で自殺しています。それは戦死した人と同数なのだそうです。アメリカの特殊部隊の帰還兵が一月に殺人を犯す割合は、一般人の114倍であったという統計があります。

 人間には戦争はふさわしくない。人間は戦争に適応できない。そんなことを数字は示しています。

 こんなデータを並べてみますと、幾つもの想像が出来ます。この男は帰還兵で戦闘経験から心を病んでいる。自分を傷つけている。見えない敵と戦い続けているのかもしれないし、殺人を犯した自責の念から自分を罰し続けているのかもしれない。人殺しをしないではいられない、再適応できないゆえに、人里離れた墓場で暮らして、自分を隔離し続けたのかもしれない。

 この男からローマの軍隊の霊を追い出したということは、このようなPTSDからの解放を一つは示しているのでしょう。圧倒的な人間を滅ぼす軍事の力の破壊の影響からまたその人格化されたものから、男を解き放ったのだということが出来ます。しかし、それだけではなかったろうと思います。

 マルコはこの記事の直前に湖の嵐を鎮めるイエスを描いています。マルコは荒ぶる自然の背後に人格化された悪霊の力を見ていました。気象さえ操る人格化された悪霊を神であるイエスが治める力を持っている。そういう信仰告白でした。そういうものを超えて彼こそが天地の主であるということ。

 マルコはここで、強大な軍事力というもの、地方を支配する強大なローマのちから、そういうものにも勝る力をイエスが持っている、ということを描こうとしているのですね。世界の覇権を握っているローマの力よりも強い力をイエスが持っている、ということ。

 今学術会議の会員の任命を巡って問題が起きています。菅内閣が拒否したのですね。本当はこのプロセスはメクラ判なはずなのですね。推薦されて来た人を形式的に承認していくそれだけだった。各学会で力を持っている研究者が当然推薦されて来る。それをおそらくは体制批判するひと、ということで外したのですね。学問の自由を奪っていく方向に流れている。実は文科省による大学の締め付けは見えない形でどんどん進められています。学長に権限を集中させ、気に入らない教員は首に出来るようにして来た。民主的な大学は教授会が権限を強く保持していますから、出来ないですが、非民主的な大学では出来るようになっています。あとは徹底的な組織の合理化。授業シラバスの徹底的な管理。小中学校化が年々進んでいきます。マスコミを支配し、大学人を黙らせる。そうして言論統制が着々と進み、この国はどこに行くのか、分からないところへ来ています。中国のようになっていくのかもしれません。香港化ですね。そして戦争のできる国にしていく。確実に戦前回帰が進んでいます。

 あるキリスト教系の学校で、上の人から「第二次世界大戦で日本は正しかった」という風に教えろと言われて、実習生が良心から悩んでしまったという報告がキリスト教教育のスレにあがっていました。そういうことが現実に起きている。キリスト教学校で皇国史観ですよ。

 一気にいろいろな軍国主義化が加速しています。また、同時並行的に弱者の切り捨ても加速することでしょう。何も希望は見えません。FBで日本人辞めたいスレを書いたら、46件もいいねが来ました。破格に多い。そして神学校の同窓生の牧師がコメしていました。悪霊に憑りつかれています。落ちるところまで落ちるしかない、と。この人はいわゆるリベラルな人ですが、やはりある意味魔的なものを今の政治の動きに感じている。犠牲としての大量死を求めるレギオンを感じている。

 真面目に考えれば本当に絶望したくなる。落ちるところまで落ちるしかないと言うしかないのかもしれない。

 しかし、この記事で勇気づけられること、当時のマルコの教会の人たちも勇気付けられたであろうことは、イエスはそれらの悪魔的な影響力に勝利されたということなのです。私たちの主はこの時代の悪霊にすでに勝っておられる。そこに立って私たちは時代の思潮にこうして立ち続けることがこれから、それぞれの持ち場で求められています。天候を左右する悪霊にも、時代を支配する悪霊にもキリストはすでに打ち勝っておられる。その信仰に立って参りたいとおもうのです。そこに必死に自分を置いて行きたいと思うのです。そこからしか希望は生まれません。

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