勝利を見ておられる神
マルコ11:1-11/ヨハネ16:33
コロナ禍が迫って、東京では百人を超える感染が報告されるようになりました。本当に不気味で不安になりがちな中で私達は今日を迎えることになりました。
今日は受難週の入り口に当たる棕櫚の聖日です。イエス様がエルサレムに入られた、とされる日です。そこで今日はエルサレム入城と呼ばれている箇所を読んで行きたいと思うのであります。十字架の道行きへ向かってイエスがエルサレムに入られる。そのシーンでありますが、四つの福音書はどれもこの場面を取り上げています。
ルカ福音書では「イエスは先に立って進まれた」ことが記されています。イエスは独り弟子たちの先に立って決意を持ってエルサレムへ向かっていく。そこでベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を遣いに出した。ベトファゲもベタニアもエルサレムから三、四キロのところにある、イエスの一行の宿泊地です。そのどちらかの村にまだ誰も乗ったことのない子ロバがいる。マタイではろばと子ろばとなっていますが、それを引いてつれてくるようにいいます。どうしてまだ誰も乗ったことがない、ことが重要なのかといいますと、聖なる目的に使われる動物や物はまだ使われていないものでなくてはいけない、という旧約聖書の影響であるとも考えられます。どうしてそんなロバがいることが分かったのかといいますと、これは知識の賜物とでもいうべき霊的な能力が発揮されているわけです。
なぜほどくのかときかれたら、『主がお入用なのです』と答えなさい、といいます。ここで主とはマルコでは権威を持つ主、キリストですが、ルカでは法的所有権を持つ主人たちと対比させて、「ろばの主」誰も乗ったことのない子ロバはメシアの子ロバである、といっています。持ち主たちに問いただされてそのとおりに答え、ロバを引いていき、服をロバの上にかけて、そこにイエスを載せる。あるいは道に敷いて王としての特別な尊敬を表した。
ルカでは弟子たちだけが、取税人ザアカイの回心やラザロの復活のような目覚しい業のゆえに神を賛美した。マタイやマルコでは大勢の群集が、特にマタイでは身体障害を持つ人や子供までが賛美したとあります。
それではこのエルサレム入城、それも驢馬に乗って入城はどういう意味があったのでしょうか。どのようなパフォーマンスであったのか。イエスは神の自己啓示であります。イエスを見ることは父なる神を見ることであります。神は何をこのパフォーマンスによって伝えたかったのでありましょうか。
まずイエスがいかなる種類の王なのかということ。それを考える鍵は「ロバ」にあります。メシアはゼカリア9:9のようにロバに乗ってくる、と預言されています。そして平和がもたらされることが言われています。通常の王は軍馬に乗って兵隊を引き連れ、捕虜や分捕り品を並べて城へ凱旋します。それは勇ましい、興奮を引き起こさせる光景です。
しかし、ロバはどうでしょう。ロバとはどんな動物なのか。ロバはたとえば英語ではAssといい、馬鹿、ということです。Donkeyにしてものろまで間抜けなイメージが付きまといます。ドンキホーテはロシナンテという驢馬に乗って武者修行に出ますが、これは嘲笑の対象です。足の短い驢馬に人間が乗るのはそれほど見栄えのいい光景ではありません。
また、ロバは荷物を載せたり人を運んだりする動物として日常的にパレスチナでは使役されています。一日中同じ碾き臼のまわりを回るところから、従順のシンボルであり、馬と違って頭をいつでも垂れているところから、謙遜を表します。ロバはまた、苦しんで働き死んでいく平凡な人生にもたとえられます。
軍事力をあらわす馬に対して驢馬はありふれた日常のシンボルであり、平和のシンボルであったといえます。そして謙遜で従順な、卑しめられた下積みの存在であります。そのような動物に乗ってイエスはエルサレムに入られたのです。足の短い驢馬に乗っての王の入城というには滑稽なものであったにもちがいありません。
そこでこの記事から響くメッセージまず、その用いられた驢馬のように、低い、卑しめられた、貧しい存在として身を低くして私たちに近づいてくださったし、下さるということです。苦難の僕のように身を低くして私たちの王となられる。私たちはその貧しくなられた王をどのように迎えるのでしょうか。私たちは何をその足元に敷きましょうか。
次に彼は平和を与える、ということです。平和とは聖書では神と共にあること、です。平和とか平安とかいうことは神と共にある、ということ以外にありません。特にヨハネ福音書などではイエスが平和を与えるということは大きなモチーフです。イエスがどのようにして神と共にある、という平和を私たちに与えることができるのか。それは神からへだたりを持つ私たちの罪を十字架にかかって償い、帳消しにすることによってです。そのようにして初めて、私たちは神と共にある平和を味わうことが許されるのです。イエスの与えられる平和とは、甘いものではありません。ご自分の肉体と精神の限界まで使い切られた十字架の犠牲という表現、その愛からもたらされる平和です。イエスの苦難を経た平和、ぼろぼろの肉の塊になるまで愛を表現するイエス、その苦難を通して表された神の犠牲的な愛を通して与えられる深い平和。そのような十字架の苦難を通して、神と共にある平和を与える決意を表すために、イエスは驢馬に乗られたのです。
しかし、異なる側面として取り上げたいのは、今日はこちらがメインなのですが、ヨハネを読んだ理由でもありますが、この入城は明らかにイスラエルの王であるメシアとしての入場であり、宣言である、という側面です。メシアとして自分は来た。そのいわば勝利の軍事パレードなのです。通常の王は軍隊を引き連れ、分捕り品や捕虜をひけらかして、軍事パレードをします。イエスのエルサレム入場は貧しい平和の主としてのそれではありましたけれども、それは明らかな勝利の宣言、先取りであったということに変わりはないのです。
十字架の道行きの最暗黒の時間の前に、その時間の向こう側に、イエスは、ご自分の勝利を見ておられた、ということです。勝利者としてイエスはご自分を人間に晒されたのであります。
イエスの受難を偲ぶこの季節に、私はいつもローマのサンタ・スカラという階段を思い出します。ピラトの家の階段を移築したという伝承のある階段で、イエスが受難の前に引き回された場所と言われています。真偽の程は分からないのですが、相当高い大理石の階段が巡礼する人たちが来るのですり減ってしまい、木をかぶせているのですが、その木もぼろぼろという階段でした。一段一段巡礼たちはイエスの御苦しみを思いながら膝で登ります。私も登りましたが、上まで行くまでには疲れ切ります。本当にこの階段を引き回されたのかどうか分かりませんが、そうであったとすれば、いかばかりの肉体的な苦しみであったのか、ということが胸を押しつぶしそうになります。
マルコではイエスは鞭打たれて十字架につけるために渡されたとありますから、いろいろなとがった金属をはめ込んだ皮の鞭で肉体が裂けるまで鞭打たれたのです。そうしてその階段をひきずりおろされて、死の場所へ向かったのでしょうか。更に苦しい場所へと。肉体の苦しみと恐怖とが一つになり、ただ気絶するというか、墜落して行くしかないような時間をイエスは過ごさなくてはならなかった。
しかし、そのような場所へ向かう前に、イエスは勝利者として立たれた。凱旋する王として立たれた。すでにご自分の勝利を確信しておられ、苦しみの向こう側に見ておられるイエスがそこにおられます。本当に世の力は私たちを押しつぶそうとする。世の力は押しつぶそうとするのだけれども、イエスは既にご自分の苦しみの向こう側に、勝利を見ておられて、それを表現なさっておられる。世の力は強い。人間を、私たちを傷つけ貶めて立ちあがらせないようにする力も強い。病や死の恐怖も強い。自分だけがやまない保証はないわけです。
しかし、イエス様は既に世に勝っている。イエス様はこれから十字架にかかってくるしまれる。しかしそのことが起きる前に、もう既に自分を殺す世の中に、そして死と言う人間にとっては避け難いものにでさえ勝っているということだったのです。これから勝つというのではない。負けるということはありえない。
私達を脅かす死の力は強い。しかし、イエスは既にこの力にも勝利しておられる。コロナの力は強い。しかし、イエスはその力にも勝っておられる。
昨年コロナのような風邪を経験した時に思ったのですね。私の中の免疫の力は必ずこの風邪に勝てるだけの力があると。最後には自分の中の免疫の力を信じるしかない。私達も今の時代の不安と対峙する時に、自分の中に宿って下さる聖霊を信じる。私の中に宿って下さる御霊はイエス様の御霊であり、それはこの苦しみの前に勝利を確信されて勝っている、と宣言された方の聖霊なのです。
最後はそこへ行きます。私の中に棲み給う聖霊は死の前におののかず、既に勝って下さった方の御霊である。私の中にその方が住んでくださっている。そこに安心をして下さい。私市先生にメールを書いたら、全てをイエス様にお委ねしなさいと書かれていました。私の中に棲み給う方は勝っておられる。だから委ねていいんだ。
あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。このみ言葉を握りしめて日々を過ごしてまいりたいと思います。