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公現日という不思議な日

マタイによる福音書3:13-17

 今日公現日という不思議な日なのです。顕現祭、エピファニーともいいます。この日はクリスマスが祝われるずっと前から、東方教会や西方教会で冬の最も重要な祭りとして祝われていたのです。起源ははっきりしないのですが、むかしから四つの異なった出来事がこの日には考えられていました。それはキリストの誕生、キリストの洗礼、カナの婚宴、そして東方の三人の博士の来訪です。もともとこの日がクリスマスだったのですね。
 
 東方の博士の話はイブにいたしました。占星術の博士たち、というのはメルキオール Melchior (黄金。王権の象徴、青年の姿の賢者)バルタザール Balthasar (乳香。神性の象徴、壮年の姿の賢者)カスパール Casper (没薬。将来の受難である死の象徴、老人の姿の賢者)とされています。この人たちはあろうことか、ゾロアスター教の神官であり魔術師なのですね。ともかく異教の人たちであり、当時第一級の知識人たちなのです。彼らがヘロデ王のところを訪れる。彼らがメシアを探す、というのは当時の世界で一級の知識人たちが探していたということであり、世界中が待望していたという意味をマタイは込めているのです。その人達はイランからエルサレムまで行くのですからすごい遠距離の旅なのです。それも占星術という分からないものを頼りにそれだけを頼りに出かけていく。すごい冒険です。命がけでメシアを探しに行く。当時のことですから命がけの旅になりましょう。ものすごい信仰のありかたです。お金もかかりましょうし、仕事も放りだしていく。その日が今日だというのです。

 教会は四世紀からこの日をクリスマスから分離しました。キリストの降誕祭を洗礼の祭りから切り離したことには大きな意味がありました。キリストは洗礼を受けて初めて神の子となった、という異端の人たちがいたからです。養子論といわれる人たちです。イエスの誕生は神が初めから肉体をとられたということが大事なのであって、後から神の子となったのではないのですね。罪を除いては私たちと同じようになって下さった。それがイエスの誕生の意味なのです。

 イエスの洗礼の意味はそれを強める強調するものとして意味がある。神は肉体を軽蔑なさらないで取って下さった。人間の肉体や限界を引き受けて下さった。引き受けて下さっている。それがクリスマスの意味でした。どこまでもあなた方とともにいこう。洗礼は一言で言えばあなたたち罪人の側にいるよ、ということなのです。イエスは許しを必要としないただ一人の方でした。そのお方はしかし、罪人をご自分から切り離そうとは考えなかったのです。悔い改めからではなく、ただ愛のゆえに、イエスは洗礼を申し出て罪人である私たちの側に立って下さったのです。だからその時に、愛ゆえに罪人と一つになられた時に、愛する者心にかなう者、という御声がかけられたのですね。

 イエスはどこまでもどこまでも低くなられて私たちに近づいてくださる。私たちのために私たちととともに低みに降り、同じようになって下さる。罪のないものでありながら私たちのために罪人の一人にすらなられた。今もそうしてくださっている。

 私たちが罪を犯した時、どうしようもない自分の弱さにあきれ果てる時、自分だけは許されてはならないと思う時にでさえも、洗礼を受けられたキリストは私たちの側に立って下さるのです。

 Aさんという方がいます。今は外国で電話交換手をしています。彼女はADHDの障害を持ち、非常にアグレッシブな方です。ある時、彼女から自分のしたことが許されるかというメールが来ました。

 私は吐気がしたし、許されてはならないと人情では思います。しかし、キリストの洗礼は正反対のメッセージを告げます。わたしがあなたたちの側に立っている。Aさんの側に立っている。だからあなたは許されるのだ。

 神ご自身が罪人の側に立つというのはそういう突き抜けた重いこと、なのです。

 昨日リメイクされるアメリカ人監督の沈黙、の特集番組をやっていました。キリシタン史の中の神の沈黙の問題を取り扱っていて、神学の学びをしてからはこの小説の主題、遠藤自体の文学のテーマが20世紀神学の主題を取り扱っていたのだと理解できましたが、その中にキチジローという弱い信徒がでてきます。彼は踏み絵を踏んで棄教し、家族は火刑になります。主人公の宣教師ロドリゴを裏切ってユダのように売ります。それなのに彼は赦しを請い求め続ける。とても浅ましく卑しい姿です。しかし、彼がいなければこの小説は成立しない。彼は作者遠藤の姿だ、といいます。

 最近天正少年使節のことを改めて読むことがありました。原マルチノ、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアンです。原は司祭となり、キリシタン追放で追放されてマカオで客死、伊東は司祭となり長崎で病死、中浦も司祭となり、穴つりで殉教死、ですが、一人、千々石ミゲルだけは司祭にならず帰国して十年、イエズス会を離れて棄教、武士として仕えて64歳まで生涯を送り日蓮宗の檀徒として死にます。棄教の理由はイエズズ会との関係性の破たんとかいわれますし、武士になってからは沈黙の転びバテレン同様、弾圧側に回りました。しかし、仕えた藩主に退けられて、有馬に戻り、日の当たらない生涯を送ります。子孫は今でも続いています。

 最近の千々石ミゲルの墓が発掘されていますが、ロザリオを巻いた人骨が見つかりました。はじめはミゲルのものかと思われていましたが、女性で、どうも二日前に亡くなった妻らしい。ミゲルの墓はまだ隣の空間らしくて、本年発掘される予定です。

 この話を聞いた時、私はここには転びバテレンがいたんだな、それもカクレキリシタン化していたのかもしれないな、と思いました。ミゲルの墓からロザリオや聖櫃の蓋の十字架が出るよりも、妻から出たというとに想像力がはためいた。おそらく妻はキリシタン家系でないところからめとらされているだろうから、修道士を辞めたミゲルと結婚後、キリシタンになっていますよね。そして聖櫃があったということは聖餐式をやっていたのかもしれない。まるで私市先生夫妻のように、二人だけで信仰を守っていたのかもしれないし、周囲にそういう人たちもいたのかもしれない。ミニ集会みたいなことをしていたかもしれない。ミゲルの墓所はもとキリシタン墓地だった場所なのです。

 ミゲルは組織としてイエズス会から離れ、カトリック教会と絶縁した。それ自体は彼の信仰的営為の中で棄教では必ずしもなく、キリストと切れたわけでもなかったのかもしれない。しかし、時代背景から離反=棄教とされてしまった。そういう中で弾圧側に回ったりすることは苦しいことだったでしょう。いくらカトリック教会と切れていても反対側に回るのは苦しい。何度もおそらくは許して下さい、と神に言い続けなくてはならなかったでしょう。そしてある意味時代を先取りして、無教会的な立ち方に神とのつながりを求めざるを得なかったのかもしれません。

 許してください、御慈悲を。裏切っても裏切ってもそれでも神とのつながりを求めざるを得ない人間。あるべき姿としてはとてもよいとはいえない。しかし、キリストはキチジローの側に立つ。立って洗礼を受ける。立って十字架につく、のです。そういう突き抜けたものが神の愛であります。あくまでもそれにどう答えるかは私たちの側にあるのです。

 自分には洗礼を受ける資格がないという方がおられますが、それは罪深いことです。代わりに洗礼を受けてくださった、へりくだられた方の差し出された手を振り払うことになるからです。

 この一年どのような歩みになるかわかりません。しかし、どのような歩みになっても、キリストの突き抜けた愛に支えられて生きましょう。突き抜けた愛の中で生かされてまいりましょう。

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