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信仰が求められる時

マルコによる福音書4:35-41

 コロナウイルス禍であまりに不安な時代に突入してしまいました。感染者は日に日に増え、特に東京の感染は多い。千葉でも障害者施設の大量の感染がありました。この病気は無症状者が多いので誰のことも信じることが出来ない、ということに特色があります。誰とも共にいることが出来ない。まさに孤立の時代を写す病であります。そして病自体の全体像がなかなか捉えられない。最近になって味がしない、匂いがしないなどの特徴が見えてきました。消化器系の症状も強く出ることが分かって来ました。ヨーロッパの惨状、医療体制が十分に取れないために助かる患者も見殺しにせざるを得ない状況が見えてきました。何が本質かというと感染者の大半が軽症や無症状でも二割程度の重症者が出て、人工呼吸器や心肺を使わなくてはならないのだけれども、それが間に合わないので医療崩壊を起こす、そのせいで多くの人を見殺しにせざるを得ない、ということです。イタリアやスペイン、ニューヨークなどではもうそんなことが起きています。たとい自分が死ななかったとしても近親者をそうした形で悲劇的に見送らざるを得ないかもしれない。そういう悲劇が日本を襲わないとは言えない。そこまで来ています。



 どうなるのか、生き抜けるのか分からない。そういう時こそ、信仰なのではないかな、と思うのですが、教会も礼拝を自粛しているところが多くあります。信仰がないゆえに自分勝手な行動で享楽的に生きたり、買い占めをして自分だけがよければよい、という私利私欲を剥き出しにしたり、人間の本質というものが隠すことも出来ずにむき出しになっています。人間のあり方、立ち方というものは本来こうした生死を超えていくもの、ここがスタートラインとして探求されていくべきものなのでしょうが、そういう深化に向かっていくようには到底思えません。



 さて、マルコのこの箇所はみなさんもよく知っている箇所です。この礼拝でもルカの平行箇所を何度も取り上げたことがあります。夕方までイエス様は人々の聞く力に応じて、たとえ話で語っておられました。そして夕方になると「向こう岸に渡ろう」と弟子たちをお誘いになりました。



 向こう岸とはどんなところか。読みすごしてしまいますが、次の記事からしますと、ゲラサ、豚を飼っている不気味な異教の地です。何が待っているか分からない、不気味な異教の場所へ宣教に行こう、と弟子たちに声をかけられた。つまり召命を与えられたのです。それは弟子たちにとって勇気を奮わなければならない決断だったでしょう。もし私たちがイスラム教の国に宣教師に行きなさい、と言われれば結構なプレッシャーですから、そういうプレッシャーをはねのけて、ただキリストと共に馴染んだ場所を後にしたのです。今であれば見えない近未来、一週間先二週間先に待っているかもしれない感染爆発の恐怖なのかもしれません。



 そこで激しい突風が起きた。これはガリラヤ湖名物の、高地から吹いてくる風らしいですが、台風のようになってしまう。漁師として船を操るのはプロでしょうし、多少の風雨なら動じない筈の弟子たちでも、どうにもならない時化にあった。波を被って沈みそうになる。命の限界ぎりぎりになる。



 それなのにイエスは助けようとはしてくれなかった。一緒に居るにもかかわらず、手を出してくれない。眠っておられる。私にはこの弟子たちの気持ちが分かるような気がします。聖霊を体験する者は神が共におられるのをリアルに捉えます。それだからこそ、折にかなった助けを与えられないことは、辛いこと、より一層耐えがたいこと、になるのです。見捨てられた気持ちも募るものです。「先生、私たちが溺れても構わないのですか。」にはタイミングのよい助けをくれようとしないイエスへの恨みがましい感情がたっぷりと篭められているように感じます。



 イエスは私たちと共におられる。しかし、私たちはこんなに困っている。臨在という現実と困窮という現実のギャップ、コントラストに立たせられることがあります。神の民イスラエル民族もそのような歩みがありました。荒野で主の臨在が豊かにあるのに、飢え死にしそうになる、という現実がありました。弟子たちもイエスが召し出しを与えたから、わざわざ住み慣れた場所を後にしたのです。そして冒険的な宣教へ向かったのです。しかし、イエスが企画したことなのに、イエスは無責任にもそれを途中放棄して、手を貸して下さらない。それどころか、途上で死にわたされそうになっている。イスラエルの人々もエジプトから導きだして置きながら、それを途中荒野で見棄てようとしているかのような神を体験したわけです。



 眠っておられるかのようにしか感じられない神、沈黙する神。召し出しを与えながら途中で身を引いてしまわれるかのような神。そこにおられるのは分かっているのに。それが神と付き合った人々の多くが体験させられた現実なのでありました。私たちが溺れても構わないのですか。あなたは私たちが溺れそうになっていて、分かっていても手を貸して下さらない。無関心なように黙っておられる。何故黙っておられるのですか。何故助けて下さらないのですか。恨みの感情が吹きあがる。



 このような恨みがましい訴えを聞いて、イエスは立ちあがられる。イエスは何故を問う、恨みがましい感情をしっかりと受けて下さっているのです。そして風を叱られると風はなくなる。風を支配していた魔的なものは砕かれるわけです。気象というものさえも支配されるイエスの力が発揮される。弟子たちは自分たちと共におられるイエスの本当の姿を驚嘆しながらより深く知ることになります。この方はどなたなのか。私たちと共におられる方は、本当に天地万物を支配なさっている方なのだ。



 これは一つの信仰の姿です。そして、臨在がある、しかし助けてもらえない、という現実のくっきりしたコントラストの中で、一つの解決法であります。行き詰る。切実に求める。与えられる。より深くイエスを知る。



 しかし、ここにはもう一つの信仰の姿が透けて見えています。まだ「信じないのか」という御言葉の裏に透けて見える、イエスが私たちに求めておられる信仰の姿です。この弟子たちのあり方がまだ何か足りないものであり、信仰の名に値しないあり方であるとすれば、何が信仰の名に値するものであるのか。



 それはイエスがおられる、嵐はあってもイエスがおられる、ということに安らぎを覚えられる、他ならぬイエスの中に喜びと慰めを見出しうる信仰のあり方なのです。イエスの下さること、イエスが与えて下さるもの、状況、勝利が喜びだからではなくて、イエスご自身を喜びとする信仰なのです。イエスご自身が、状況がどうであっても私の喜びである。共におられるイエスが私の喜びである。私の全てである。イエスはそのような信仰を求めておられるのです。

揺すぶられる。死の大波に呑み込まれそうになる。社会不安の波に呑まれそうになる。昨日も関係があるのかどうかわかりませんが、能見台で人身事故がありました。コロナ鬱だと思った人たちがコロナに負けちゃいけないと書いていました。そうかどうかは分かりません。東京封鎖とか、食べるものが手に入らないとか社会的なパニック状況が襲うでしょう。まるで戦時下のような緊張状態に長く置かれる可能性も高い。フランスはもうそうです。心を病む人たちが増えて来ていて、壁に向かって独り言をぶつぶつ言う人がいても気にするな、壁が話しかけてきたという人がいたら精神医療に繋げろ、というジョークもあります。



 しかし、その中で私はどう立つか。それが問われている。信仰はイエスに助けを求める信仰が悪くて、信頼の信仰しか駄目だ、ということでもありません。嵐の中で呼び求める経験があり、そこで本当にいいのは、信頼に基づいて強く求められる信仰でしょう。危なっかしい信頼のなさから助けを求める信仰から、少しずつしか成長しないものでもあります。私のことを言えば惨めったらしく助けてくれと祈り求めるに違いありません。そして助けてくれの信仰の底に信頼を潜ませている、その程度のことでしかありえないようにも思います。



 私は去年思い返せば今のコロナにあまりに酷似した風邪を経験しました。地べたを文字通りはいました。完全に復調するまでに二か月近くを要しました。私は少なくともあれはコロナに近縁のものだったと段々と確信を強めています。どうしてこんなひどい風邪になるのか、理解できなかった。癒しを求めても癒されなかった。癒しをそもそも求め抜けなかった。ただただ苦しいだけ、おぼれ死ぬような呼吸困難、味覚の喪失、食べること自体への嫌悪、全身のだるさ。本当に病のさなかでは苦しいというだけなのです。ただ地べたを這いまわっているだけです。



 ただ何か段々と理解できたのはというか、仮説を立てはじめたのは、コロナではないまでも近縁のウイルスで交差免疫を神様は作られたのかもしれないな、ということです。似たような風邪の人が結構一定割合でいる。武漢でも罹患率発表では1%だったそうですから、本当はもっといるとしても私の周りでその話を聞いた人たちはおそらく百人で数人いる。交差免疫を神様は私達に贈られているかもしれないということです。免疫機能が似たようなウイルスに対しては記憶していて、感染しても軽症で済ませるか、感染しないこともある。そうするとそういう免疫を持った人間が集団免疫を持つための社会の盾になれるわけです。そんな意味があったのではないかな、と思い始めているのです。



 イエスに向かって叫ぶ信仰、その底でイエスがおられるということだけで安らうことが出来る信頼。私たちはこの状況の中でともかく飲みこまれるのではなく、不安で心を病むのでもなく、信仰に立って参りましょう。

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