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主の信託に応える

マタイによる福音書25:15-30

 この聖書の箇所は神の国の話を何話かイエス様がしている中に出てくるものです。終末が来ると予告し、苦難が襲うことや目を覚まして備えることを繰り返し語った後、この話が来るのです。
 ある人が使用人たちに自分の財産を預けて旅行に出ました。イエス様の譬えは面白いですね。このある人は勿論神様のことなのですけれども、譬えられているのは当時の不在地主なのです。これは当時の世相を映しています。当時ローマを中心としたグローバリゼーションが進展していまして、貧富の差が開いていました。土地を取得してどんどん豊かになる不在地主。それが神様に譬えられていたのですね。リッチマンとしてよく貧しい民衆には知られた存在だったのだと思います。不在地主は根拠地をあちこちに持っていますから、イスラエルにはいないのです。
 不在地主は旅に出る時に三人の僕にそれぞれ、五タラントン、二タラントン、一タラントンを信託していく。一タラントンは6000デナリ。一デナリは労働者一日の日当ですから、一万円として6000万円になります。二タラントンは一億二千万円。五タラントンは三億円にもなります。これは商売をするには十分な額です。僕たちは五タラントン、二タラントンのものは倍額を儲けた。しかし、一タラントンのものは地面に穴を掘り、隠して置いた。
不在地主は戻って来る。五タラントンのものも二タラントンのものも、褒められる。
 この言葉不思議ですね。一億二千万円、三億円を主人はわずかなものに忠実だったとほめているのです。そして一タラントンの者だけは「蒔かないところからかり、散らさないところから集める酷な人であることを承知していたので、恐ろしさのあまり隠して置いた」と言います。彼だけは主人を信じていなかった。このセリフは不在地主への皮肉。。。を込めているともいえます。不在地主とはそういう存在だったのでしょう。そして銀行に預ければよかったのにといってタラントを取りあげ、十タラント持つ者に与えて、この僕を外の暗がりに追い出すのです。
 さて、ある人が旅に出る時とはどんな時なのか。もうこの記事が置かれた文脈から明らかなように、主が十字架にかかってこの世を去る時なのです。この世を去り、復活して天に昇る。ともかくこの世に弟子たちを残してこの世を去っていくのです。その時に僕たちを信頼して、自分の財産を信託していく。僕たちとは教会を指します。あるいは弟子たち一人ひとりである。
 この財産とは何でしょうか。伝統的には一般的な生来与えられた個人の才能のように読まれますけれども、第一義的には私はそうではないと思うのです。
それは福音と賜物、それも宣教の召命とそれを果たすための聖霊による力の賜物だと思うのです。そこから転じて個人個人の使命とそれを果たす聖霊の賜物、賜物としての自然な資質、才能だと思うのです。主は教会を信じて召命を与え福音とそれに伴う力の賜物を託していく。あるいは個人を信じて使命を与え賜物を託していく。
 これから十字架にかかる時に、弟子たちに想いを残していく。これからイエス様死ななきゃいけないんだよ。これからこの世で一番惨めな悲惨な思いをして死ななきゃいけない。ヨハネ福音書の告別説教を思い出して下さい。この世にいる自分の者たちを愛して愛しぬかれて、ああ本当に愛しいあなたたちに福音と賜物を託していく。それは高価なご自分の命を賭けた死をかけた賜物なんですよ。それだからこんなに高価なんだ。その人の使命とそれを果たすための賜物には多い少ないはある。使命が違うから、それを果たす賜物も違う。しかし、いずれにしてもこんなにも高価なのはイエス様がすべてを賭けているからなのです。
 そういう意味ではタラントンはイエス様の愛、いのちそのものである。その思いのこもった賜物である。福音もね、それに伴う聖霊の働きもね、本当にイエス様の愛、命そのものなんだ。命そのものが私たちに託されている。これを受け取って大きくしてほしい。広げて欲しい。それが神様の強い願い、本願なんだね。
 五タラントンの者も二タラントンの者も、同じ量ずつ儲けた。主の想いに応えたのですね。主に信頼して与えられているものを用いたのです。そしておそらく宣教に成功したのですね。あるいは賜物が強められて沢山の人が癒されたり解放されたりして倍になったのですね。
 神様の業に参与することは恵みです。儲けるために働いている時にも喜びがあったのに違いありません。どんなにか晴れ晴れとして堂々と進み出たのではないかと想像します。
 余談になりますが、今まで私が牧師になって洗礼を授けた人は17人いました。この間改めて振り返ってみたのですね。勿論その人たちが残念ながらとどまっているわけではないのですが、それでも一人一人が神に出会った時のこと、そして洗礼を受けた時の喜びの姿を私は一生忘れないでしょう。教会の小リバイバルの中で神様に出会った人もいました。もっと静かな時の人もいます。それでも神様が出会って下さって神様とつながったという喜びは忘れられません。働いて来たこと、用いられて御業を見ること、それが全て恵みなのです。そして聖霊のバプテスマを受けた人は60人。これも本当に手を置いて60人。信徒さんも牧師さんも洗礼前の人もいました。所属している教会もいろいろですが、60人。これも、本当に恵みです。癒された人癒しのことも振り返ってみますと今HPに少しずつUPしてもらっていますが沢山いる。本当にそういう御業に参与できたこと自体、非常な喜びなのです。
 さて、主人が帰って来るとは、終末の時に再びイエス様が来られる時です。マタイ福音書のこのあたりは終末の時がみな意識されています。終末の時、各自どう生きて来たかが問われるとき、信頼して応答したものは神に称賛されて神の国に入れられる。それは三億円をわずかなものと言い、対比して多くのものと表現されるような大きな豊かなもの、なのです。神さまの業に参与させていただいて、それだけでも恵みがいっぱいなのに、更に豊かにもの比べるべくもないものが与えられる。なんという豊かさなのでしょう。
ところが気になる最後の者だけは主を信頼しなかった。信頼せず応答しようとしなかった。信託された賜物を用いて結果をださなかった。そしてうずもれさせてしまった。
 そういうものは神の国には入れて貰うことが出来ないのです。
 ここで注目しなければならないのは、一つは信頼し応答しようとした者は、儲けを得ているということです。やったけれど失敗したという僕はいないのですね。私たちはやっても失敗するんじゃないかと思います。でもここでは応えようとするかどうか。それだけしか問われていない。応答する者には実りが約束されている。主に答えようとする者にはかならず実りが用意されているのです。励まされますね。私たちの連鎖祈祷や断食はこの確信に立つべきです。祈って宣教の力を求める。そこに実りが約束されていることを信じる。
 一つは託されてやってみようとはしないで、埋もれさせてしまっているのが今の日本の教会なのではないか、ということです。先日、あるキリスト教学校が非宗教系の学校に吸収合併され、宗教教育を辞めるというニュースがありました。教会が力を失った結果、全部世俗の経営にのっとられて行く。キリスト教系の学校、施設、病院で働くキリスト者は一割なんていないわけです。そうやって力がなくなったのはなぜか。私は福音の力というもの、力の側面を無視した伝道にあったと思うのですね。祈って与えられて喜ぶ、のではなくて祈らないで諦めて、意味づけする。倫理やヒューマニズムにキリスト教を引き下げてしまい、それに終始して来たことにあるのだと思うのですね。その結果人数が増えない、広がらない、教会が力をなくしてしまう、そういう循環になってしまった。その結果が出ているわけです。託されても福音を埋めてしまう。それは私たち一人一人にしてもそうです。伝道が難しいからと言って語ろうとしない。自分の心にキリストを閉じ込めて出そうとしない。それはキリストの命がけのわざを大切にできていないわけなのです。
 そこから転じて今度は聖霊の賜物、個々人の自然な賜物。一人ひとり賜物が委ねられています。これもね、大切に育てて、神様の栄光のために、福音のために、もっと小さく見て教会のためにでもいい、用いて育てていくことが求められている。これも本当に残念だが日本のクリスチャンは賜物を神様の栄光のために使わない。役立てない。例えばね、渥美清がクリスチャン、ウルトラマンの円谷英二がクリスチャン、平山郁夫画伯がクリスチャンていうことが知られていたら、どれだけの人がもっと福音に親しみを持てたでしょう。別に証を語らなくても、公言してくれただけでも、ずいぶんと距離が縮まった筈です。そういう努力を有名人がして来なかった。足りなかった。だからキリスト教はいつまでも遠くにあるわけなのです。
必ず私たちは主の前に立たされます。それが命の終わりの時と考えるか、あるいは世の終わりの時と考えるかいろいろ考えることは出来ます。しかし、必ず神の前に立つときが来ます。その時に私たちが問われることは神の信頼に応えたのか、答えなかったのか、なのです。
 私たちはイエス様の愛と命、そしてその命である聖霊を託されている。また召命を果たすための様々な賜物を託されている。イエス様は私たちを信じて下さっている。信じなくて答えない僕にどうぞならないでください。イエス様の想いを無駄にしないでください。燃える愛に応えて下さい。

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