万事が益となって働くということ

ローマの信徒への手紙8:28

 今日は復活の記事ではなくて、少し違うところを取り上げてみました。

 聖霊みずから切なるうめきを持ってとりなしてくださる、の続きです。少し振り返ってみますと、被造物は虚無に服して苦しんでいる。私たちもそうである。その中で聖霊を与えられている私たちは聖霊自ら、言葉にならないうめきをもってとりなしてくださる。これは異言であるといわれます。私たちの中に私たちの心臓の鼓動とともに聖霊が住んでくださって、共に呻いて下さる。神はそういう形で私たちと苦しみを共にしてくださっている。神に向かって祈りを発して下さる。三位一体の交わりですね。

 そうして来るのが今日の個所です。私たちは知っている。この「知っている」という字は、22節にもありますが、公に、高らかに宣言するかのように言うことであり、信仰者の公同的知識・信仰者全体の共通の知識を表明するのです。自分の救いと望みについて、次のことは確かなことだ、と言うのです。<28 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを>、私たちは知っている、と。文語訳聖書では、<凡てのこと相働きて益となるを我らは知る。>でした。全てのことが、互いに作用し合って、万事良い結果となる、というのです。

 これは信仰者に個々にとってでありますし、神のみ旨に沿ってとストイックに解釈することもできる。私は改革派の理解よりも広く緩くここは読んでもよいと思います。もっとすっきり、あっけらかんと、人生の現実の中でそういうことが起きる。いろんなことが人生には起きてくる。降りかかってくる。しかし、それらのものは私たちの命や信仰を破壊し、ダメにすることにはならない。一見ダメになるようなことも私たちの人生に益となり、究極的には神に私たちを近づけ引き上げてくれるよすがとなる。すごいことですね。何が来てもどんとこい。私たちの栄養になる。

 虚無の中で、私たちは体の贖われるのを、自分も復活させられるのを待ち望んでいる。しかし、神は離れておられるのではなく、私たちの中でとりなしてくださる。共に呻いて下さる。そういう信仰の上に立って、どんな悪いことも、どんなにひどく人生を破壊しそうなことも大丈夫、益になる。意味の分からないことも必ずそうであると希望を持つことが許されるのです。

 さて、先週書いていたのですが、浄土真宗の僧侶の方の書き込みをウオッチしています。大谷専修学院(キリスト教でいう神学校)の恩師が、毎時間、黒板に「生死を離れる」と書いてから始めるそうです。とてもその求道性には惹かれるものがあります。(なんか、この学院は聖書神学校に雰囲気が似ています。)さてしかし、彼はうつ病がひどく、飲酒がひどく、アル中になっている。精神の手帳も取った。

 その方が書いていたのは臨終待つことなし、来迎頼むことなし、という言葉でした。親鸞の言葉です。本願を頼むがゆえに死に方を問題にしない、生き方さえも問題にしない。救いを信じ、ひたすら、あるがままの自分を受け止めつつ生きていく。うつ病のままでいい、もっとひどくなってもいい、ぐちぐち愚痴をいってもいい、よく彼は脱糞する話を書くのですが、それでもいい。一生このままだろうが、底は満たされている、というのです。

 とても高い精神性だと思うし、良さもあると思うのです。キリスト者もベースラインでは私は十字架の贖いによって救われている、神の子とされている。ハレルヤ、現在の生がどうみじめでも、病気でも、それを超えて十字架のもとに立つということは大事なことです。

 しかし、私は仏教の世界観についていけないものを感じるのです。やはり真理に導いてくれない道であると感じるのです。そこにはまず、虚無だけがあり、仏教には歴史認識がありませんから、それが明ける希望はないのです。また、虚無に耐えることだけが人間には求められている。助けて下さる御霊もおられないのです。万事が益となって働くこともないのです。この私は苦しみをひたすら、耐え続けるしかないのです。そしてそこから深い意味をくみ取って神のみ心に近づいていく、ということもないのです。

 対照的な証をFBで見つけました。その牧師さんは特に誰かに接触することもなかったのに家族も陰性なのに、コロナになりました。

 彼は聖霊派でもあるのですが、彼の教会の霊性ではアタックとは言わないのですね。神のご計画の出来事と受け止めていきました。はじめは軽かったのですが、肺炎が悪化し39度以上の熱が十日も続き、酸素吸入、そして命が脅かされる事態になりました。

 しかし、彼は神のみ心、という受け止め方をしていたので、体はつらいはずなのに16日間の入院を楽に過ごすことができたというのですね。入院の初日から神の優しい語りかけがつねにあり、感謝にあふれていた。感謝、悔い改め、再献身、神様が彼を取り扱ってくださった。感謝してただ、ひれ伏すばかり、というのですね。神様との濃密な交わりの時を過ごすことができた。そこで与えられた証がたくさんあるので、お分かちしたいと語るのですね。

 コロナというような惨禍であっても、益と変えられる。実例を見せていただいた気がしました。これが福音の力であると思いました。もちろん教会メンバーも知り合いもたくさん彼のために祈ったでしょう。祈りの力を感じた、とも書いてありました。

 万物が益となって働く。私たちは天地に、この世に、独りぼっちではない。うちに住み見たもう聖霊がとりなしてくださる。そして、ありとあらゆるものが、天地のルールを超えて、働いて、プラスになるように計らってくださる。非常に前向きなこの希望、喜びに立っていきたいと思うのです。