マリアの明け渡したもの

ルカによる福音書1:26-38

 今日読んだ聖書の箇所はアドベントの季節になると読まれる一つの物語です。よく宗教画に書かれる「受胎告知」です。おとめマリアのところに天使が現れて、受胎を告げるという、美しいストーリーになっています。この物語は前の部分に出てくる洗礼者ヨハネの誕生告知とつながっています。

 少し学問的なことをもうしあげますと、天使ガブリエルの出現によるこの予告の文学類型は、ヨハネの誕生告知であるザカリアの場合と同じように、旧約における神、またはその使いの出現形式、その中でも特にイサク、イシュマエル、サムソンなどに見られる形式に則っています。これらの誕生予告には一定の文学構造が見られ、出現―おそれの反応―使信―反論-しるしの授与というパターンも見られます。

 また、メシアが処女から生まれるということは、この福音書の著者にとって大変意味のあることでした。それはこの福音書の書かれたルカ教会は、ユダヤ人にとって外国人だったからです。キリストはユダヤ人であるダビデの子孫であると同時に、処女懐胎において「異邦人にとっても主である」ことすなわち、ユダヤ民族でありながらも、それに決定的に拘束されない存在であることが必要な要素だったからです。ユダヤ人にとっては男性であることが一民族成立の必要不可欠な要素ですが、女性から男性を介さずに生まれるということは、一民族の決定的な結びつきから離れることなのです。つまりルカ福音書にとってこの受胎告知は使徒言行録に見られる異邦人伝道への道の出発点をなすものになっているといえます。

 まだ結婚前であったマリアに告げられたメッセージは「自分が身ごもっている。」ということと「その子供は聖なる神の子である。」ということでした。その告知に対してマリアが答えた答えから、今日はメッセージを受け取っていきましょう。

 ザカリアは天使から告げられたときに、「自分は年をとっているし、妻も年を取っているから」と告知されたことを否認しました。祭司という職にありながらです。しかし、ただの村娘であったマリアはどうでしたでしょうか。「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言って受け入れています。はしため、という言葉は「女奴隷」ということです。ただの下女や女中ではありません。生きることも死ぬことも全て、主人の意のままになる。そのような全面的な委託があります。パウロが自分のことをキリストの奴隷と呼んでいたことはよく知られています。それは自分のために奴隷の死を死んでくださったキリストに対しての愛に基づく、徹底的な献身を表した言葉でした。マリアの場合もここには神の意思に対する全面的な徹底的な明け渡しを見て取ることが出来ます。

 私は神様のもんだから。私は丸ごと神様のもんだから。生きることも死ぬことも苦しいことも悲しいことも嬉しいことも丸ごと神様のもんだから。どうなろうとどうあろうと、神様のもんだから。

 お言葉どおりにこの身になりますように、とは更にたたみかけるように、神の意思に自分を委ねる、明け渡すという決意表明です。

 マリアはここで一体何を、具体的に神に明け渡したのでしょうか。それは幾つも考えられます。

 一つは自分の常識です。男性を知らない自分が子供を産む。それは常識外のことです。はっきり言えば馬鹿げたこと。しかし、自分の常識をマリアは明け渡した。ザカリアは常識を明け渡せなかった。老人には子供は授からない、という常識に止まった。神様の前に立つ時には自分の今までの常識をぽん、と外す必要があるわけなのです。

 一つは若い未婚女性としての身体感覚とでもいいましょうか。男性経験のない15歳の少女として生きてきた人、女子中学生が突然妊娠を告げられる。それはどんな恐怖だったでしょうか。おそらく現代、同級生と付き合っていた中学生が妊娠してしまうよりも怖いことだったでしょう。おそらく異性とは接触できないで家族以外、同性集団の中に隔離されて、性的な知識もないままに育てられている。ある程度興味本位でネット知識を積み重ねて交際して突然妊娠する恐怖係数を三とすれば恐怖係数十の針がふり切れていたのではないかと想像します。それを乗り越えさせられたのです。

 一つは自分の生命の安全です。夫の子でない子供を生むということ、それは姦淫の罪を犯すことであり、公にされれば石打の刑でした。これは古い刑罰の方法で、イスラム教の国アフガニスタンやイラン、パキスタンでは今も石打の刑が残されています。最近ではブルネイ東南アジアで石打の刑が取り入れられました。サウジアラビアでは石打の刑はなくなりましたが、王女がアメリカ人と恋愛関係になり、二人とも公開処刑されました。

 最近ではシリアで、婚約者と婚前交渉をしたというだけで、女性が穴に首まで埋められて、周りを男性たちが取り囲み、石を投げて頭を打ち砕いて処刑している写真が公開されていました。もちろん女性の姿は見えないように加工されていましたが、男性は罰せられずに十代の女性だけが、最後まで叫びながら死んでいったと書かれていました。それがまた、マリアの運命であったかもしれないのです。

 そしてもっと怖いことに婚約中にマリアと性関係を持ったのだとしても、婚約者もろともに罰せられる可能性もあったのです。婚約と結婚は峻別されていて、婚約期間中の性交渉もイスラムでは罪です。ヨセフも死刑の可能性があった両家の関係が悪ければそうなった可能性があります。

 正しい人であったのでマリアのことを表沙汰にするのを望まず密かに離縁しようとした、というマタイ福音書の文言には表沙汰にして姦淫だと訴えればマリアは石打ち、自分が婚前交渉して身ごもったとしても家同士の関係によっては死刑。密かに離縁して自分は関係ないとして、マリアは不義密通の子を産んだ女として生涯を日陰者の暮らしをするか、どうかでした。

 つまり死の危険、よくても日陰者の暮らしを甘受するように言われていたのです。自分の命を差し出すように、それを賭けるようにいわれているのです。

 一つは自分の人生の設計のようなものです。彼女は順当にいけば結婚して平凡な女として人生を送っていかれる筈でした。しかし、神の子を産むというのはあまりに波乱含みの人生を送ることを余儀なくされることです。事実この後、イエスは伝道生活に入り、十字架にかけられて殺されてしまう。それを母親としてなすすべもなく見守らなくてはならなかったのです。その痛みは想像しがたいものがあります。

 ここで理解されることは明け渡すということ、委ねるということは、ただ流れに身を任せることでは決してないということです。信仰とは絶対依存の感情などといいますが、依存を甘えと感じる、自立の対立概念として考える日本人の感覚とは全く違う。南無阿弥陀仏、ではないんですね。フランクルが態度価値という概念を使いますが、人生の苦難を前にしてそれを引き受けていく、そんな態度なんですね。

 ある軽度知的障害とされた男の子のインタビューで最近書いた論文がありまして、その子は多分外せるのですが、それを引き受けて生きていくと表明していたのですね。それです。意志をもって苦しみが予想されてもそれをも引き受けていくこと、それも神に対する愛をもって、自分を開いていくことだということです。そのような明け渡しの結果、キリストは私たちのために生まれました。マリアの予想を超えた大きな実が与えられたのです。

 信仰者としてのマリアはそんなことを一瞬にしてやってのけてしまった。それがキリスト教会でマリアが崇敬されて来た大きな理由なのだと思わされます。

 信仰とは「自分を開くレッスン」だと思わされます。実に自分を開いて目に見えない神様を信じる、信じ切るレッスン。閉ざすことは人間にとって易しい事です。神も人も信じられないということ、傷ついてしまい自分を閉じること、自分を守ること、そして自分に閉じこもることは易しい事です。信じること、自分を開くこと、人に向かっていくことは難しいことなのです。同様に自分一人で生きていると思うこと、所詮自分はこの世で一人なんだと思うこと、神を信じないで一人であくせくすること、不安になること、絶望することは苦しいけれど人間にとって易しい道です。しかし、どんな状況の中でも神を信じること、毎日不安になってしまうことを任せること、絶望しないで希望を持ち続けること、苦難を引き受けることは難しいことなのです。そこには断固とした神に向かって「自分を開き続ける」という作業が必要になってくるのです。

 皆さんは毎日、自分を神様の前に開いてください。不安はあるでしょう。さまざまな常識的な判断基準は私たちの首をしめます。だから難しいでしょうけれども、開くレッスンを心掛けて行きましょう。私たちの開き方が不十分であっても、確実に神様はその空き領域を自分のものにしてくださいます。そして自分では思いもよらないような実を与えてくださるのです。