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「モラルを愛する」ということ

マタイによる福音書5:15-20

 私たちはモラル崩壊の時代に生きています。何一つモラルとして確定的なことを残さない時代に突入しようとしているようにさえ、見えます。殺してはいけない、がないために人を軽く殺してしまいます。秋葉原の事件のように自分が自殺したいために、何人もの人たちを自殺に巻き込んで殺します。

 何人もの男性と同時に付き合っているという女の子、「誰か一人と付き合うなんてできなくない?」と言っている二十歳くらいの子に、「やっぱり本当に好きな人は一度に一人でなくない?」と言っている子の姿が昨日何かの番組でインタビューされていましたが、似たような会話を私も教員として何度も聞かされて来ていまして、ただこういう感覚の問題でしかないのだな、と寒く感じたことが何度もあります。弱者への眼差しがないために振り込め詐欺で何十億円ものお金を主として老人から巻き上げます。このようなことは犯罪者だけの問題ではなく政策の中でも平気で行われます。

 モラルというもの、人間社会の中で共生するために必要であったルールというものを私たちは自己実現や時には人権と言う名前で棄て去ってしまいました。その結果どこまでも肥大する自己が増長して、他人の権利を蝕んでも平気になってしまったのです。自分たちで新たなルールを定めるだけの力もなく、ただフワフワと日常を感覚に任せて浮遊している、それが日本人の姿であるように思えます。もし新たな強いポリシーがあるとすれば、それは経済や効率といったポリシーだけなのかもしれません。

 そのような中で福音に生かされる人間はどのように生きるべきなのでしょうか。何の基準で生きるべきなのでしょうか。もちろん、私たちの基準はイエス・キリストにあります。イエスが生きられたように考え、生きたいと願わされます。さてそこで、イエスの生き方とは何だったのか、どう理解するのかが問われます。もちろん私たちは十字架にかかられたキリストの中に最も深い姿を見、そこで神の御心を知ることが出来ます。しかしそこでさえも、私たちは何かあるべきスタンダードに照らして自分の罪というものが分らなければ、救いというものを体験することが出来ません。何から自分たちが贖われたのか、救われる必要があったのかさえ、定かにはなりません。そして十字架で罪赦されたものとして生きる時に、キリストのように生きるといっても、非常に個人的な、感覚的なものだけになってしまいます。

 そこでやはり、キリストの生きた思想と行為の枠組み、つまりアプリオリに持っているパラダイムは何だったのか、ということになります。それはやはり、当時のユダヤ教、特に後期ユダヤ教というものでした。イエスの山上の説教の思想には当時のラビの教えに類似したものが多く出てくることが言われます。当時のラビの教えというものを素材にしながら、オリジナリティーのあるものを組み立てて語っていたというのが、正しいイエスの教えの理解であるでしょう。

 後期ユダヤ教におけるパラダイムについて語れば、ユダヤ人にとって律法はユダヤ教そのものでした。律法を愛することはどのようなユダヤ人にとっても大前提でした。イエスも当然ユダヤ人としてそのようなパラダイムの中で生きていました。律法よりも大切なものがある、などという現代的なヒューマニズムに引きずられた発想がイエスにあったと思えません。ただ、後期ユダヤ教で言われているのは、ハラハー主義とアガダー主義の対立があった、ということです。ハラハーとは宗教的行動主義、言い換えれば律法主義です。アガダーは宗教的思惟や経験、神への愛や信仰経験を大切にする主義と言われます。カバラへ繋がる系譜です。極端なハラハー主義者はユダヤ教に信仰などいらない、と主張します。律法遵守だけがユダヤ教なのです。

 イエスの批判は福音書では多く、ハラハー主義者に向けられています。例えばルカ福音書のパリサイ人と徴税人のたとえでは、パリサイ人の行為のリストは素晴らしい。これはハラハー主義からいえば当然のことです。ユダヤ人にとって律法を守ることこそが神のパートナーとなり、日常に神の支配を実現することであったのです。
また、徴税人とは自ら入札によってローマの手先となり、植民地支配と抑圧、不正を犯して貪欲に生きるローマ的価値観の虜ですから、ハラハー主義者にとってこんな人でないことは確かに感謝すべきことなのです。しかし彼には欠けている大切なものが一つあった。それはアガダー、本来行為を生み出すべき神への献身的な愛です。
続く子供を招く記事でも、子供はハラハーについては無に等しい。しかし、アガダーがある。それが神に義とされる道である。金持ちの議員の物語とも共通しています。議員にはハラハーはあった。しかし、無軌道に見える神への愛、アガダーがなかったのです。神への愛に基づいた律法の行為は、日常化された「慣習法」を超えて行く筈だ。それがイエスの教えに通底するものである、といっても過言ではありません。

今日の聖書の箇所はそれを前提にして理解していただくと分りやすいと思います。メシアとしてのイエスが来たのは、ユダヤ教の廃止ではなく、完成である。それは神への愛に基づいて、神との関係に立ってそこに捉え返して大切な律法を守っていく、そういう生き方の完成だ、ということです。つまりアガダー主義の完成である。律法の文字から一点一画、つまりもっとも小さいヨットの文字さえ消えることはない。

 この言葉をマタイが採用した背景にはマタイ教会の論敵の存在が挙げられます。マタイの教会にはカリスマ的なグループがあり、イエスの到来によって律法は無効になったと主張したからであると言われます。

 尚マタイ教会には異邦人に伝道することへの否定的な見方があり、律法を持たない異邦人は犬や豚に喩えられ、聴き手としては想定外になっています。つまり律法を知っているユダヤ人キリスト者を対象に、例えば裁くな、ということも語られます。モラルの基準を持たない人たちを悪くいうなということではないのです。律法を知っているもの同士がそれを基準に裁きあうな、ということなのです。

 有名な黄金律も、律法を細部に渡って知っている人たちを相手に、律法を要約している。モラルの基準を持たない人たち相手に語られた言葉ではなく、それを愛して守ろうと言う志向性を持つもの対象に、どうすればよいかを教えているわけです。
パウロの煩悶も律法という基準あってのことでした。「罪がその正体を現すために、善いものを通して私に死をもたらした」とあります。基準のないところでの信仰義認ではなかったのです。宗教的行動主義では救いに達せない自分が、信仰によって義とされる。以来キリスト教会では三年間の教理教育がなされ、異邦人教会に中心が移ってもきちんと行動の基準が教えられました。古い異邦人としてのモラルの基準を棄てて、徹底的に訣別して加わるのがキリスト者の共同体だったのです。

 それではモラル崩壊の時代に、モラルを持たない人たちの中で、私たちはどのように神に応答していくべきなのか。私たちは聖書に基づいた倫理的道徳的基準をきちんと持たざるを得ません。時代に合わせた形で導きを求めて応用する工夫をせざるを得ませんが、神を愛するが故に、神に心から従って生きるために、モラルを愛していかなくてはなりません。それは個人倫理であると同時に、教会共同体の基準になります。

 私たちはイエス・キリストの恵みに満たされ、愛に満たされて行きましょう。そして神の恵みにお答えする時に、ただ、神への愛の故にモラルをも大切にして参りましょう。それが律法を一点一画も損なうことない道であるのです。

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