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カリスマと正義-誰が天の国に入るのだろうか マタイ7:21-23

 舟の右側の記事を書いていますと、実にいろいろな形で聖霊が人に与えられていることを見ます。意識的に求めるということさえなくて、必要そうな人にあえて与えておくとか、伝統的な聖書の基準に照らしてどうとか、信仰理解が十分に理解できないハンデがあるとか、を乗り越えて与えられています。

 

 そして頭を抱えることもありました。FBのスレッドで安倍さんを大好きなクリスチャン通称「安倍チャン」たちにも一人ならず与えられたからです。

 

 それらの人々のほとんどは力の論理が大好きで、再軍備して抑止力を高めることを支持しています。そして安倍さんの強引な民主主義を踏み潰すやり方も支持しています。それらの人々の共通点は信仰を内面のことに限定し、政治を超えた信仰の世界があるなどというのですね。今私達はどう立ったらいいのだろうか。安倍チャンでもイエス様の弟子と言えるのだろうか。トランプ大統領でさえ求めれば異言を与えられると思うのです。

 

 今日の聖書の箇所には主よ、主よという人たちが出てきます。これはイエス様にとっては弟子たち、10章を見ますと弟子たちは癒しや悪霊追放の権能を授けられて派遣されていますから、マタイ教会では信仰告白していてイエスをキリストとして受け入れている信仰者たちでしょう。マタイはそのような批判を込めて書いています。

 

 終わりの時、裁きの日にはそのような権能を授けられた弟子たちが大勢やってくる。教会から見れば聖霊の賜物を豊かに注がれたカリスマティカーですね。そういう人たちが来る。その人たちは預言し悪霊を追放し、奇跡を行った。神と近く歩んでいたと思っていたし、聖霊と協働してそういう業を行っていたのでしょう。

 

 しかし、それが救いの条件にはならない。保証にもならない。聖霊の賜物が豊かに与えられていて、それを行使出来ることが救い、選びの基準や保証にはならないというのですね。では何が基準や保証になるのか。それは御心を行ったかどうか、なのですね。神に応答して神の御心であるところに従ったかどうか、なのです。そういう歩みができたかどうかなのですね。

 

 パウロは聖霊は救いの保証といっているのに、矛盾していないか?と思われると思います。もっともです。それは福音書の書かれた背景を見る必要があるのですね。

 

 ここで前提になっているのは聖霊の力を行使する弟子たち、そしてそういう聖霊のみわざの見られるカリスマ的な教会の姿であることに注意してください。まずはそういう人たちが弟子として想定されている。そういう人たちがクリスチャンとして想定されているわけです。そうでない弟子たちや教会は想定されていないわけです。それが初代の教会の姿であり、キリスト教の姿だったからです。

 

 キリスト教会はイエス様の生き方や教えに賛同した人たちの集まりではありませんでした。そういう出来方はしなかったんですね。聖霊の注ぎから始まった。イエスをキリストとして信じて聖霊の働きが見られるカリスマ共同体。それが初代の教会の姿なわけです。パウロなんかも、生きている時のキリストは知らない。驚くほど教えとか生き方に関心がないんです。肉に置いては知るまいと言ってますからねえ。

 

 ところが時代が少し下ってどうも、教会自体がイエス様の生き方や教えから離れたものになってきた。第一コリントとかみていてもそうですが、どうも離れたものになっていく。その辺できちんと教えや生涯を語りなおす必要があって書かれたのが福音書、と言われているのです。マタイはその中でもユダヤ人に向けて書かれているわけです。

 

 イエス様の教えからかけ離れたものになっているカリスマ的キリスト教会の中で、そうではないんだ、戻るところが違うんだ。イエス様の語った神の御心、律法を超えた生き方に戻る必要があるんだ。これがマタイ福音書なんですね。そこに立って生きたかどうかが問われるんだ。それがマタイの言いたいことなのです。

 

 聖霊は求める人には誰にでも与えられる。本当に今の感じを見ているとそうなんです。条件はそれしかない。求める人には与えられる。そうかといって安倍ちゃんさんにも与えられることに私は違和感はありますよ。

 

 しかし、本当の選びの基準はそこにはないんだ。聖霊は気前よく与えられていくけれど、本当に最後の最後にキリストに知っているよ、といわれるのはそういうことではないんだ、と言われているのですね。

 

 イスラエルの神は正義を求める神です。小さいもの弱いものに御身を傾けられて、小さいものが踏みつぶされることを激しく怒られる神です。正義の神という側面がある。アモス書5:24「正義を洪水のように恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ」という言葉があります。どんなに礼拝や祭りがあっても無意味だ、という神なのです。

 

 ちゃんと私の心に従って生きたかどうか、示した生き方や教えに従って正義を愛したのかどうか。そこも問われるんだ。折衷的に福音を内面化してカリスマ的なキリスト教を信じ、外では新自由主義的な生き方をしていくことを支持するような立ち方は違うんだ。問われるんだ。そう読めてくるのであります。

 

 場の顔という渡辺英俊という有名な牧師が書いた小説があります。主人公は青年である教会の役員と親しくなるのです。そしてその役員はその主人公を聖会につれていって、主人公は信仰を持つのですが、役員が世俗の生活ではとんでもない企業の論理に従って人々を苦しめ、従業員を搾取しているのか見えてくるのですね。セクハラやインモラルなことを平気でやっている。世俗は世俗、教会は教会というロジックで生きていたその役員は最後に破たんして自殺していくのです。教会という場でのロジックと世俗のロジックのダブルスタンダードをもって生きる現代人の醜さを書こうとした、と帯に書かれていました。

 

 トータルでその人がどう立ったのか立とうとしたのか、そこが問われてしまう。そこでイエス様に知らないと言われてしまう。このマタイの箇所周辺は狭い門や岩の上の家の話が続いていますからそれを語るのです。

 

 きちんとダブルスタンダードではなくて、イエス様の生き方、教えられたことに立っていくこと。例えば平和を作りだすものは幸い、なのです。それを踏まえていかなければいけない。聖霊の働きが豊かになればなるほどそこに戻っていかなくてはいけない。イエス様ならどうなさるか。どう判断しどうなさるのか。それをいつも問いかける癖を付けてみて下さい。そこに立って生きてまいりましょう。

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