聖霊の働きに中に生かされる ガラテヤ3:1-5

 今日はペンテコステの日です。先ほどお読みしたように教会が生まれた誕生日に当たります。私達は聖霊派の教会ですからこの日を特別に大切にしていますし、この日に期待もしています。

 

 さて、私は聖霊派の教会のアイデンティティというか、プライドについてこの頃良く考えるのですね。私達は何か不思議がられながら、時には霊的熱狂主義という言い古された言葉で批判されながら、この国で暮らしています。日本ではなかなか聖霊体験は受け入れられない現実があります。しかし方や世界に目を転じてみると世界で聖霊体験している人は正式の聖霊派の統計だけで五億8408万人とアッセンブリーの先生が書いていましたから、二十二憶のキリスト教徒の約四分の一は聖霊派なわけです。おそらく実態は他教派に及びますから、もっと多いのでしょう。キリスト教の中で聖霊を体験することは珍しいことでもなく、奇異でもなんでもない。普通なこと、なのです。そして世界でアフリカや南米や中国で伸びている教会は例外なく聖霊体験を大切にする教会なのです。

 

 聖霊派でない教会に聖霊はおられないのか。そういうことではありません。感じるセンサーがあれば感じることはできる。キリスト馬鹿の会のメンバーの人たちはよく聖霊を聖霊派ではない教会の礼拝で感じた話をしてくれます。しかし、聖霊の働きを大切にする教会とそうでない教会とは何かが違う。聖霊を体験しながら進むことが許されているのとそうでないのとは、どこかかが違う。そのことを今日はまず考えてみたいのです。

 

 ガラテヤ人への手紙の私の卒論の箇所を今日はテキストに選びました。私訳を読んでみましょう。

 

1ああ、愚かなガラテヤの人たちよ。あなた方のその両目の前には十字架につけられたままのキリストがありありと示されたのにもかかわらず、誰があなた方を(悪魔的な力でもって)化かしたのか。

 

2私はこのことだけをあなた方から確かめたい。あなた方が御霊をその身に受けたのは「律法の諸行為」によって(を原因・根拠として)なのか、それとも信仰を聴くことによってなのか。

 

3こんなにもあなたがたは分別がないのか。霊でもって始めたにもかかわらず、今になって肉によって(自分自身を)完成しようとするのか。

 

4あなた方はあれ程大きなことを無駄に経験したのか。本当にそんなこと(肉で仕上げようとすること)をしたら、(聖霊を受けたことは)無駄になってしまうではないか。

 

5それではあなた方に聖霊を与えておられ、あなた方の間で力ある奇跡を行っておられる方は律法の諸行為を根拠にしてそうなさるのか。信仰を聴くことによってそうなさるのか。

 

 使徒言行録に記されたような聖霊の注ぎによって始まった初代教会は、聖霊の働きの中で形成されて行きました。ガラテヤの教会もそうした教会の一つでした。しかし、そこには問題が起きました。聖霊の働きだけでは駄目だ、割礼を受けてユダヤ人にならなければ、ということをガラテヤ人たちにそそのかすユダヤ人キリスト者たちが入り込んで来たのです。この頃、教会はまだ到底一枚岩と言えるような状況でもなく、様々な考え方の人たちがそれぞれに伝道していました。異邦人に遣わされたパウロにはそれぞれの地方の教会に後から入り込んで来た様々なライバルの伝道者たち、すなわち、論敵がいました。論敵がいるから、そして教会が異なった方向に歩こうとしてしまうから、パウロは手紙を書きました。このガラテヤ信徒への手紙は「馬鹿」と信徒たちを罵る最も激しい手紙です。

 

 この手紙があるおかげで、私たちはペンテコステ以降の教会における聖霊の働きをおぼろげながら知ることが出来ます。そしてその働きに預かることをどれだけ大切なこととしてパウロがいたのかを知ることが出来ます。

まずこの箇所で分かるのは、パウロは十字架のキリストの説教をしていた、ということです。これはパウロが実際に行った伝道説教の痕跡と言われていまして、他にテサロニケ一1:9-10,1コリ2:1-5が該当します。十字架と復活をのべ伝えていたということです。

 

 次にこの説教の場が実は初代の教会では聖霊を体験する場になった、ということです。信仰を聴くことによって聖霊を受けた、と言われているからです。イメージとしては十字架の説教をパウロがしていると、聖霊が下って聴衆が倒れたり、異言を語ったりする聖会のイメージです。全員が異言を語ったとは思いませんが、預言状態になった人を側らで見て、聖なる何かが起きていることに圧倒されたのは全員だったと思います。

 

 そして四節に出てくるように、それは衝撃的な大きな事件だったので、一瞬にして人生を転換させてしまった、ということです。無駄にしてしまうのは惜しいあれほど大きなこと、だったのです。

 

 五節から理解されるのは、一度与えられた聖霊は教会に補給され続け、力ある奇跡が起こり続けたということです。癒しやその他の奇跡行為が起こり続け、神の臨在がとどまり続けたということです。このしるしや奇跡は古代教会の文献を見ますと、ローマから北アフリカ、フランスに至るまで、各地で四世紀の初めまでは少なくとも、地域差はあるものの、活発であったことが分かります。火の洗礼を経験したジャスティンという名の伝道者もローマにいました。癒しや奇跡、預言やビジョンも各地で経験されていましたし、それ故に聖霊の教理は古代に作られた信条の中にきちんと組み込まれて行ったのです。

 

 これらの聖霊の体験をパウロはどのように意味づけていたでしょうか。なくてもあってもよいもの、のようには意味づけていませんでした。あるいは何か現代の非聖霊派の教会のように怪しいもの、望ましくないものとして意味づけてはいませんでした。パウロにとっては聖霊の働きに共同体が預かるということには、大きな意味があったのです。それはガラテヤの構成から分かるのですが、共同体が「義とされている」ということだったのです。この箇所は信仰義認、つまり信仰によって神に義とされるという、二章で出されたパウロの神学の命題を論証する箇所です。信仰によって義とされる。された。その根拠は何か。それは単に説教を聞いて、衝撃的な形で聖霊を受けたことだったのです。また、分かる形で聖霊が共同体にとどまって下さっていること、だったのです。神がガラテヤの共同体にとどまって下さっている。それを日々体験する。それは神と正しい関係にされて、キリストの霊を受けて、神の子とされているということの証拠だったのです。パウロにとってそれはユダヤ人の割礼に勝る、神の民のしるしでした。聖霊の働きの中に生きるということは、神の民とされていることの紛れもないしるしなのです。

 

 私たちが聖霊の働きを体験する時、いろいろな形で聖霊を体験するのですけれども、私達は安心してよいのです。私達はありのままに神に受け入れられている。私達は神の子とされている。私たちは神様と正しい関係におかれているのです。

 

 ですから、この共同体に生きる私たちは安心して神を信頼し、父と呼ぶことを赦されています。心から神のみもとで安らぎ、神の愛の中で、神と共に日々歩むことを許されています。一人一人がどんな状態であっても、変わらない神の臨在があります。かわらずに神様はあなたの神、主でいて下さる。私達はそれを確認しながら味わいながら歩むことが許されるのですね。だから結果として何が違ってしまう。理性で何度も何度も言い聞かせなくてはならないではない。聖霊の働きが証明してくださる。神様が私と親しく歩んでくださっているから、私は生きることが出来る。明日が怖くない、わけなのです。

船の右側の連載、「越境する聖霊」を書き進めていて、異言の証しを集めて分析を加えているのですが、その働きのバリエーションに驚かされるとともに、いくつか考え始めたことがあるのですね。

 

1.聖霊の働きは聖霊派の交わりの周辺で起きることが多い。飛び火の形であまり聖霊について知識を持たない人にでも感染していく。

 

2.1とともに共同体から離れた場所でも起きることがある。これには選び、の要素がある。一本釣りですね。

 

3.信仰者一人一人の必要を見てくださっている目が確かにあって、個人史の中でその人の魂の渇きに応じて必要なものが与えられて成長させられている。つまり集団的要素はあるのですが、本当に一人ひとり、看取られているのを見ることが出来る。

4.聖霊の働きがはっきりしている教会で育った人は信仰の迷子にならない。人生で迷うことはあっても迷子にならずに信仰生活を続けていられている。いい育ち方をしているのですね。神の民とされている、というのはそういうことなのかな、ということが見えてくる気がするのです。

5.もう一つはね。異言という非日常的なものが人生に飛び込んだ時に、どう人はそれを生涯に意味づけて生きるのか、という学問的な関心なのです。まだ途中なのですけれども、そのような視点が私の中に生まれてきました。


 信仰的な目で見た時に異言を与えられて神の民とされたものは、どう人生を生きるのか。そういうライブモデルはあまり多くなくて、私達も持たないのですね。

 最近読んだ本で、あるクリスチャン女性、それも聖霊派の女性牧師の歩んだ生活史が出ていて買いました。川村さんという文化人類学者が自分のお婆さんの生活史を聞き取りして書いているのですね。この女性はメソジストからホーリネス、アッセンブリーに移籍して伝道者として夫と共に開拓伝道し、夫に先立たれて一人で三人の子供を育てあげて行くのですが、異言をいただいたことも書かれている。ただ、残念なのは書いた人がクリスチャンでなくて、きちんと意味をとらえきれていない、ということです。憑依なんて書いている。しかし、このお婆さん、人生の荒波の中でも信仰を失わないでね、15歳から90いくつまで信仰者として生き抜いていく。そしてね、最後は教団の教会に移っているのですけれど、異言の祈りを最後までやめないんです。大切なものとして最後まで守っていた、と書かれてありました。

 

 そうです。迷子にならない信仰。着地した信仰。神と直につながって、神と共に生きる信仰。それがいかに強いか。それを感じさせられたわけです。まさに神の民とされて生きること、生かされること、です。

 

 ペンテコステのこの日、私たちは教会への聖霊のとどまりを感謝しましょう。そして一人ひとりが豊かにその働きに預かり、信仰を深められ、賜物を増し加えられて行きましょう。

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