からしだね一粒の信仰を目指して ルカ17:5-6

  使徒たちは「信仰を増して下さい」とイエス様に願いました。同じような箇所でマタイの福音書があります。そこでは癲癇の子どもを癒すことに失敗した後でしたから、あるいはそんな出来事があったのかもしれません。

 それに対するイエス様のお答えはこうでした。からしだね一粒ほどの信仰があるならば、この桑の木に抜け出して海に根を下ろせ、といっても言うことを聞く、というのですね。

 

 これは非常に絵画的な話です。からしだねはあんパンについている芥子粒よりも小さい種です。もしそれがあるならば、桑の木これはイチジクぐわですから、空の鳥が巣をおける大木です。ザアカイが登ってイエス様を見たのもこの木でした。マタイでは山となっていますから、ともかく大きいものの譬えです。どんなに小さい信仰でも木を動かし、山を移す。そうイエス様は語られたのですね。

 

 しかし、悲しいことにそれが出来なかった弟子たちがいる。弟子たちにはからしだね一粒の信仰さえなかったのですね。

ここで信仰、と呼ばれているのはキリスト教教理の理解でもなければ、成熟した信仰のことでもないのですね。福音書で信仰があなたを救ったとか、信仰によって歩みなさいとかいうのは、一瞬の信仰、その時に神に期待して自分を賭けられる預けられる信仰なのですね。強い期待や感情を一気に神に向けられることなのです。恥も外聞もかなぐり捨てて、ザアカイや長血を患う女や、戸板で病人を吊り下げた人たちはイエス様に突進しました。盲人は叫び続けました。異邦人の女は食い下がりました。こういう強い期待を信仰と呼んでいるのですね。勿論信仰にはそれだけでない面もあります。一面に過ぎないのではありますが、それでもこれがないと、神様の御業を見ることはできないのですね。

 

 さて、私は何故日本ではこんなに神様は小さいのだろう、キリスト教は力がなく、どんどんせっかく先人が築いて来た宣教の場を取られて行くのだろうかと悲しんでいるのです。カトリックの学校や病院はどんどんシスターたちが引き上げて一般の組織になっています。あるミッション系の中学では社会科で右翼の作った教科書が採択されました。聖書の先生はクリスチャンになってくれなくても聖書の授業を通じて宗教リテラシーを身につけるだけでいい、と言っています。どんどん小さく小さく縮んでいく。どうしてなのだろうとずっと思ってきました。

 

 翻って海外の情報を見ますと、例えばイスラム教国のインドネシアでは数十年で六パーセントのキリスト教人口が二十パーセントになりました。インドネシアはリバイバルが継続していると言われています。中国では五パーセントがキリスト教徒で2030年にはアメリカを抜いて世界第一位のキリスト教国になると予測されています。どうして近隣諸国でそうなのに日本だけが滅びていくのだろうか。

 

 そんな思いをもってネットを見ていますと、こんな動画を見つけました。アメリカでしたか、イスラム教シーア派の人たちの救いのために祈っている祈祷チーム確か10人位、がありました。宣教団体のチームなのかもしれません。ある時、神様に「あなたたちは私には不可能なことがないことを信じていない」つまり本当には信仰がない、ということを言って刺されたのだそうです。そこでその祈祷チームの人たちは具体的に「大勢の人たちがキリストの夢を見て、救われる」ことを祈り始めました。周囲の人にも祈りの募金を呼びかけ、ネットで外国のクリスチャンにも呼びかけました。

 

 するとしばらくして、あるクリスチャンからこんな報告を受けました。それはシーア派の地域で伝道している別の組織の牧師の証でした。その宣教団体は前任の牧師が原理主義者に惨殺されていて、たいそう危険な地域に宣教師を派遣していました。ある時新しい牧師が覆面の男たちに顔に袋を被せられて拉致されました。

 

 もうだめかと思った時にその牧師は大勢の男性の前に立たせられているのに気付きました。公開処刑されると思った時に聞いた話は、驚くことでした。それは全員の男たちの夢にキリストが立って、男たちの殺人の罪はお前たちに報いられる。そこから救われたかったら、今度来る牧師の話を聞きなさい。」といったそうです。そして男たちは900人、全員救われて家族も救われて、部族ぐるみクリスチャンになったそうです。

 

 この証は一例のようで、イスラム地域でモスクごと改宗する例もかなりあるようで、宣教は恐るべき勢いで進んでいる地域があるのです。

 

 つまり、本当に期待して、具体的に祈った時に祈りは聞き入れられたのです。それがからしだね程の信仰になったのですね。本当に山が動いたわけです。私は以前ある実習生から、長野の飯田で夜中に畑に光るものが落ちて、そこからキリストを信じなさいと言われてクリスチャンになった田舎の老夫婦の話を聞きました。時は飯田でホーリネスリバイバルの起きている時期だったようです。地域の人のために祈りがささげられていたのでしょうね。

 

 本当に期待して祈る。それが私たちは出来なくなっている。日本のクリスチャンは私たちも含めてそれが下手過ぎます。それが出来ないから、つまりそこがダメだから、結局はリバイバルが来ないのではないか、と私は思うのですね。結局は信仰がないからとイエス様に言われてしまうわけです。

 

 沖縄の辺野古の運動をしているK先生について、私は期待して祈って見ました。手ごたえがありました。しかしね、決定打が打てない。他に祈ってくれる人が彼らの周りにいないからです。K先生の病気は神様の御心ではない。きちんと正義のために闘うことが御心です。そこまで確かなのに、決定打が打てない。彼もそして回りも、神様の介入を本当には信じていないからです。そこです。常識の方が勝ってしまう。結局癒されても、治る病気だったんだよ、ということで常識の中に全てが吸収されてしまうのです。もしかしてね、祈るんだったら神の癒しであることがはっきりわかるように癒して下さいと祈らなくてはダメなのかもしれません。

 

 しかし、私たちはからしだね一粒、に向かって歩んでいると感じる出来事がありました。それはうちのテレビの故障です。テレビがある朝故障してつかなくなってしまったのですね。どうにもならないので、ケーブルテレビの会社を呼ぶしかないと文句を言って夫は会社に出かけて行きました。

 

 私は彼が出ていってからテレビを付けたり消したり、あちこちネットで調べて故障チェックをしてみました。やはりだめでエラーコードが出てくる。意を決して「イエスのみ名によって命じる。テレビの故障よ、治れ。」と言って祈ってみました。その場ではつきませんでしたが、帰宅してみると、テレビは突然治ってしまった。治っていた、と言われました。これでも自然に治ったんだよ、とおそらく日本では言われてしまう。常識の中に呑み込まれてしまうのです。でもその時私の感覚では心を動かさないで馬鹿げたことをしていると思わずに祈れたのですね。

 

 私たちはからしだね一粒の信仰、に向かって連鎖断食もしていきましょう。本当に祈りは祈りによってしか生まれません。祈りによってしか鍛えられないし、聖霊の賜物の発露もないのですね。そして期待して具体的に求めて参りましょう。

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