イエスの名によって歩む 使徒3:1-16

 今日の使徒言行録は弟子たちによる奇跡行為のエピソードです。ペテロとヨハネの二人はユダヤ教に基づく敬虔行為をするために三時に神殿に昇りました。そこへ生まれながらに足の不自由な男が運ばれてきました。その男はおそらくは親族か、あるいは乞食仲間かによって運ばれて来たものでしょう。そうした人間に施しを与えることもまた、ユダヤ教の敬虔行為の一つでありましたから、男は職業的な乞食として生きていたのに違いありません。

 

 現代のホームレスの研究によりますと、人間が本当の乞食になるのは、誇りを失うことによってであります。人間はたといホームレスでもプライドを保って生きています。本当の乞食になるとはそのプライドをも失ってしまうことです。そのことをある研究では「ホコリ」と「ミジメ」と名づけていました。新宿の西口の事例では「あっち」に住んでいる人たちは本当の乞食だ、とあるホームレスが言っていました。本当の乞食とは生活の意欲をなくし、絶望し、酒を飲んで中毒し、垂れ流しになって倒れていたりする人たちです。私の感じるところではもともと、精神疾患や知的、身体的障害の持ち主が多いように思われました。何かをそれなりに考えたり工夫したり、それなりに楽しんだり、避けたり。そうして生きている健常のホームレスに比べてそれらの人たちは刹那的な生を漂流して犬のように生きています。この男性はそういう意味で人を見るときには何かもらえると思ってみることしかしない、根っからの乞食、本当の乞食になっていた人であるのかもしれません。皮肉なことにその人は美しい門という名の、門の側にその絶望的な人生を横たえていたのです。

 

 そこへ二人がやってきた。物理的な、すぐに腹を満たす、あるいは物に変えられる何かを貰えるだろう、ひと時一日命を繋ぎたい。それが男の本能的な欲求だったと思います。こういう本能的な欲求が動く時の人の表情は言葉が表情は独特で、見ているだけでよくわかります。刹那的な生。ともかく今だ。今、何かくれ。するとペトロが言いました。

 

 「金や銀はないが」刹那的な生を満たすものは自分たちにはない。食べ物はない。食べ物を買えるお金はない。しかし「持っているものをあげよう。」もっと根源的なもの、あなたの人生を全く変えてしまうようなもの、それを私たちは持っているんだ。それは何か。「イエスの名」「イエス様のみ名」です。

 

 名前というのは今は「名前だけ」とか「名ばかり」というように、実質のないものとしても表現されますけれども、当時はそんなことはないのです。小切手や手形に名前をサインすればその小切手は発行しますよね。書類にサインすると有効ですよね。そんな風に名前はその人の本質と能力と同じ力をもつと信じられていました。イエス様の名前によって、はイエス様ご自身の本質と能力と同じだったのです。イエス様があなたを歩かせて下さるよ。イエス様ご自身が、イエス様ご自身です。

 

 この言葉は直接には癒しの言葉です。イエスは福音書の中で多くの癒しの業を行われました。癒し、悪霊追放そのような奇跡の業がイエスの宣教には伴っていたのであり、それ自体が神の国、つまり神の支配が現実に来ていることのしるしでした。イエスの癒しの業を弟子たちはこうして継いだのです。イエスの業を継いで、イエスのなさったことをイエスの代理として行ったのでした。

 

 先週買った本に山形孝夫著『聖書の奇跡物語-治癒神イエスの誕生』という本があります。今でこそ奇跡は疑われているけれども、もともとキリスト教は病気直し宗教としてスタートし、ブレイクした。治癒神イエスだった。それもアスクレピオスという古代最強の治癒神に勝ってその座を奪っていった、というのですね。アスクレピオスの教団は外科医の集団を抱えていた。そのなかにヒポクラテスという元祖医者もいたのですね。ヒポクラテスの誓い、で有名な人物です。イエスの弟子たちがブレイクしたのは外科手術でどうにかなる人たちではなくて、ハンセン病とか、精神病とか、あるいは固定した障害の人たちを訪ね歩いて癒し、身体も心も、社会的にも救い上げていったからだ、というのですね。

 

 次に「立ち上がり、歩きなさい」に注目しましょう。彼の人生はうずくまる生でした。絶望の中にうずくまる生でした。そこから立ち上がりなさい、というのです。それは物理的に立ち上がることだけではない。絶望状態から抜け出すことでした。絶望から抜け出して違う状態になることです。希望に生きていくことです。彼はもはや物乞いをやめ、家族の中に戻ります。社会的に回復して普通の暮らし、失われていたノーマルな暮らしに戻ることが出来るのです。結婚して家庭を営むこともあるでしょう。そのような生活の中に戻ることが出来る。それとともに、神のして下さったことを証していく人になるでしょう。

 

 「歩きなさい」は文字通り歩くことですが、行きなさい、生きなさいでしょう。イエスの名で歩く、生きる。それはなんと素晴らしいことでしょうか。この私がイエス様の名で生きる。私はイエス様のもの、イエス様は私のもの。そういう密接な関係に私はイエス様に置かれます。ありのままに私をイエス様に知られている。知って下さっている。何も肩肘張ることもない。理解されている。愛されている。そして私の良いところも悪いところも髪の毛一本までイエス様のもの。そういうふうに包まれてすべてを主の者とされている。その状態だからこそ、イエス様の力を帯びてイエス様の権威を帯びて生きることが出来る。そう生きなさい。

 

 すると絶望的な人生を送っていた件の男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した。そして喜びに満ちて神を賛美し、神殿の中へ二人についていった。周りの人たちはびっくり仰天、我を忘れてしまうわけです。イエスの名による癒しはこの人の存在をその瞬間から変えることが出来ました。これがイエスの名の力です。イエスの名の力は金や銀のようなものよりも大きな力を持っています。場当たり的にその人を満たすだけのものよりも、大きなパワーを秘めているのです。

 

 私たちも一人一人言われています。イエス様の名によって、立ち上がり歩きなさい。今ある状態はどんなものですか。どんなしんどい状態ですか。マンネリ化した状態ですか。閉塞していますか。私の名によってそこから立ち上がり、歩きなさい。生きなさいと主は言われます。私の力を帯びていきなさい。私たちの教会もいわれています。私の名によって歩きなさい。そこから立ち上がりなさい。生きなさい、と。

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