top of page

あるパワープレーヤーの爆発物語 ルカ19:1-10

 今日の物語は教会学校で好んで語られる物語です。それは物語として劇的で分かりやすいからなのですが、あまり子どもには本当のところが読みとれるとは思いません。私は礼拝で何度も語り直して来ましたので、みなさんも覚えておられると思います。

 簡単に言えば一人の古代版のパワープレーヤーがキリストに出会って、爆発して人生を変えられてしまう物語です。爆発して新たな人生を歩きはじめる物語なのです。まずこの男ザアカイがどんな男だったのか。そこに今日の物語の一つの大きなカギがあります。理解の鍵はまず“取税人”という言葉にあります。取税人といいますと、税務署の職員のような役人を思い浮かべる方もあるでしょうが、それは全く正しくありません。

 

 ローマは非常に巧妙な植民地支配の方法を取って居ました。税金を取るために、自分で直接行わない。そうすることで直接的な反感を植民地の人間から買わなくて済みます。当時ローマが税金をかけていたのは巨大都市建設や都市の公共事業のためであり、田舎の人々は何ら恩恵に浴せず、貧しくなるばかりだったのです。

 

 その税を競争入札による指定管理者制度を取っていた、つまり民間委託していたのです。それも税金を取り立てる権利を一番高い金額を支払える人に競争入札で売っていたのです。当然高いお金を出して権利を競り落とした人間は、請け負ってローマに収める税額以上のものを、人々から取り立てて私服を肥やします。固定税-人頭税=生存する権利金,地税、所得税ではそれほどもうけることは出来なかったのですが、関税や物品税では好きなように税金がかけられたようです。エリコは交通の要衝でしたから、好きなように私腹を肥やしていたに違いありません。

 

 ザアカイはそのような役割を自らに担っていた人なのです。ローマの手先となり、同胞ユダヤ人からむしり取るだけむしり取り、豊かになることを自らに許していた人でした。ザアカイの価値観もそれを認めるような価値観があったに違いありません。ローマによる支配はホースレイによれば、経済体制や文化、世界的価値観に至るまで徹底的に変えてしまうほどの強い支配でした。ホースレイはローマ帝国をアメリカにしょっちゅう例えて、アメリカの一人勝ちによってアメリカ的な成功哲学が全世界に流布するようにローマ的な成功哲学が地中海世界を毒していったことを語ります。

 

 ザアカイはそのような価値観によって何十年間か生きてきた人物、パワープレーヤーでであったに違いありません。またザアカイは背の低い人であったとありますが、一説によれば小人症のような障害者であったとも言われます。彼は身体的コンプレックスを克服するために自らローマの成功哲学に身を委ね、「所詮この世は力と金こそ全てだ」という理念を自分に言い聞かせて生きてきた長い歳月があったということも想像できます。彼はコンプレックスを経済力で克服した、そういう意味でも強力なパワープレーヤーであったとこでしょう。

 

 ところで取税人はローマ帝国の政治的、経済的、文化的支配の手先であり、その税により大変苦しめられた伝統的なユダヤ人はその存在を盗賊や殺人者のように嫌って蔑んでいました。売春婦と同じようないわば宗教的なアウトカーストであります。彼らはユダヤ教の会堂に入って礼拝をすることが出来なかったのです。ザアカイはそのような取税人の長であり、金持ちでその地域では名前が通っているけれども、住民からは一番憎まれ、蔑まれる人だったのです。経済的には勝っているが、宗教的には全く神から切り離された生活、それが彼の置かれた文脈だったのです。それは刹那的な明日なき生き方でもありました。

 

 このパワープレーヤーはそれでよいと思っていた長い年月があったことでしょう。好きなことを豊かな財力に任せてして、好きなものを買い、好きなものを食べていいと。書いてはありませんが、外国人を含む多くの愛妾がいたかもしれません。しかし、いつしか彼の中に育って来ていたのは、そういう自分のあり方に対する、何か不安定ながさがさした感覚、感情でした。自分の生き方がこのままでいいとは思えなくなっていたのだと思います。このままでいいとは思えない。この価値観で行っていいとは思えない。同じことを続けていいとは思えない。ここから何とか脱出したい。でも仕方が分からない。そんな切迫した気持ちが育って来ていたのかもしれません。

 

 ともかく一目イエスを見たい。見さえすれば出口が見つかるかもしれない。そんな強い気持ちでこの背の低い男は木に登るという奇妙な行動を取りました。住民の間に混じっていくこと自体、勇気の要ることでした。しかし一目見なくてはどうしても見なくてはと思う。誰よりもキリストに会いたかった。そこで背が低い彼のしたこと、懸命な気持ちのさせたことはなんだったか-木に登るというとっぴな行動でした。それは子供のような、ミーハーななりふり構わない行動でした。いい年をした財産のある男がそんなことにはお構いなく、恥も外聞もなくそんなことをしたのです。地元の人たちは多分気がついていたでしょう。ここに恥も外聞もかなぐり捨てて、ありのままに、ひたすらキリストに向けて突入していく人間の姿があります。

 

 さて、この男の思いをどのようにイエス様は取り扱われたでしょうか。何百人、何千人もの人たちが一目奇跡を起こしたイエスを見ようとひしめき合っていましたから、そんな中で普通であればこの男の切実な願いが普通であればとどく余地はありません。しかしそれがそうではなかった。群衆の中からイエスはこの男の思いを感じ取った。長血を患う女の話でもそうですが、イエス様は思いを感じ取ることの達人です。いくら大勢の人がいても、切実な人間を感じ取って下さる。切実な人間ザアカイをしっかり受け止めて下さったのです。あなたの気持は分かった。あなたがどんな思いで木に登っているのか、全部分かったよ。

 

 そして急いで降りてきなさいと声をかけられた。急いで私のところへ来なさい。もう気持ちは分かったから。「ぜひあなたの家にとまりたい。」私訳では「あなたの家に泊まることにしている」か「あなたの家に泊まることになっている」ギリシア語で必然的に泊まらざるを得ない、というニュアンスです。家に泊るというのは全面的にその人を受け入れたという表現です。親しい人の家にしか今でもそうですが、泊ることはしない。その人の生活の全てが家に泊れば見えてしまう。あなたの気持は分かった。急いで降りて私のところへ来なさい。私はあなたを受け入れた。あなたを心から受け入れたよ。

 

 あなたは様々なことをして来ただろう。自分の成功哲学に酔いしれても来ただろう。自分の欲望のままに生きて、持つこと獲得することを中心に生きてきたろう。そして、いろいろな人を泣かせもしただろう。犠牲にしてきたこともあったろう。愛されることも愛することも知らずに生きてきたろう。それが大変居心地悪いとは思っているが、どうしていいのか分からないだろう。しかし、私はあなたを受け入れる。心から受け入れる。あなたの全存在を受け入れよう。抱き止めよう。そしてあなたの生活の中に行こう。

 

 その時にザアカイは爆発した。パワープレーヤーは爆発した。この私が本当にイエス様に受け入れていただけた。神がこの私を本当に受け入れて下さった。ありのままに受け入れて下さった。ああ、本当にこの私はこの私は神に受け入れられた。

 

 爆発した彼はイエスを喜んで家にお迎えして、彼は自分から手を離すことが出来たのです。ここには自分が今まで自分が執着していた財産を半分貧乏な人に還元すること、だまし取るというよしとして生きてきた価値観を放棄して、償いをすることが語られています。イエスに愛された彼は自分の執着していたものから手を離すことが出来たのです。

 

 この爆発を見てイエスは救いが来た、と宣言する。私は失われたもの、つまり迷子になった人間を探して救う、受入れ、抱きしめるためにこの世に来たのだよ、と宣言なさるのです。

 

 キリストの救いとはこういうものです。いつでもそうです。ありのままのあなたを愛するところから始められる。「急いで降りてらっしゃい。」急いで私のところへ来なさい。あなたの家へ行こう。生活の中へ入っていこう。あるがままあなたを受け入れよう。そしてあなたが爆発するのを待っておられる。爆発して、本当に愛されれば、人は変わらざるを得ない。人は変えられざるを得ない。この体験がキリスト教の救いの体験なのです。

 

 今日あなたも、「急いで降りてらっしゃい。」の御声を聞きましょう。そして急いで降りて行って受け止めていただきましょう。そして共に爆発させられましょう。爆発する喜びを味わいましょう。そして喜んで変えられてまいりましょう。クリスチャンの生活は本当にこれが基本であり、この連続です。良心のとがめを感じていて、どうにかしたいと思い御前に出て、声をかけていただいて、抱きとめられ、変えられること。それの原点にいつも戻らせていただきましょう。

bottom of page