神の刻印であるキリスト ヘブ1章

 ヘブライ人への手紙について講解説教をします。まずこの手紙はパウロによって書かれたものではありません。アポロとかバルナバという説もありますが、正確なことは分かっていません。ヘレニスタイ、ギリシア語を話すユダヤ人であったことは間違いないでしょう。また手紙とされていますが、個人宛の手紙ではなく、回し読みされる説教集のようなものです。いくつもの説教が集められています。書かれた年代は八十年から九十年代、ローマを除いた地中海沿いの大都市です。新たな迫害が近付き、再臨の希望が失われ、聖霊の働きもあまり見られない一世紀末です。受け取り手も19世紀以降、迫害と背教の危険に晒されている異邦人キリスト者宛とか、正反対にパレスチナのユダヤ人キリスト者という説もあります。迫害についての忍耐について書いているため、ローマの教会が有力候補であると言われます。

 これから読んで行くのは内容的には第一部1:1-4:13でテーマは神の言葉への服従です。第二部は4:14-10:31までで大祭司キリストを見上げながら、しっかりと信仰を保ち、恵みの御座に近づこうということ、第三部は忍耐、耐え忍ぶこと、それも隠れ蓑にしていたローマの公認宗教ユダヤ教を出て、キリストの十字架を負ってキリストに続くことが語られます。この後に挨拶などが続きます。

 第一章は簡単に要旨を述べてしまえば、見出しになっている通り、神は御子によって語られたということと、御子は天使にまさる、ということです。後半については簡単に解説してしまいますが、何故キリストを天使と比べているのか、少しとまどいます。旧約では天使はセラフィムなど神に極めて近い存在であり、新約でも神の言葉の担い手になっています。ユダヤ人キリスト教の圏内では天使の一員とみなす考え方がありました。後半はそれに対して旧約の七か所を引用しながら反論を展開しているのです。そうしなければ済まないような傾向が初代教会にはあったのです。福音書が書かれる前、キリストの救済における役割だけが信仰の中心であり、何をし何を語られたのか、歴史の中のキリストについて知らなかったし、そこに対する信仰が希薄だったのですから、仕方がないと言えば仕方がないのかもしれません。

 

 この天使信仰についてまず興味をひかれたので語っておきたいと思います。ユダヤ教の中では天使崇拝は長い歴史を持つものでした。トビト書三世紀末から二世紀初では大天使ラファエルの手で視力を回復したトビトが天使をたたえる描写が出て来ます。丁度ユダヤ教の中では新約時代は天使崇拝の盛んな真っただ中にありました。終末の待望と共に天使への崇拝が高まったのです。そして初代教会ではキリストと天使を同一視する考え方もありました。天使キリスト論、天使型キリスト論というものがあって、前者はキリストの役割は神と人との間をつなぐ天使に近いものであるとする考え方であり、後者はキリストを天使のイメージに重ね合わせます。黙示録に出てくるキリストなどはそんな描き方ですね。

 パトモスに顕れる人の子などは天使ともキリストとも伝統的に理解されて来ました。要するに古代には天使とキリストの区別は曖昧であったのです。またカトリックに引き継がれても大天使ミカエルを中心にかなりの天使崇敬がありました。サンタンジェロ、モンサンミッシェルなどに天使の顕現が伝えられているのは有名です。ミカエルという名前自体が神に似た者、という名前です。神の子キリストの終末の姿と大天使ミカエルの姿は重ね合わされて描かれて来た、考えられて来たという歴史が確かに存在するのです。また、なお困ったことに聖霊と天使の境界線も歴史的には曖昧であったという事実もあるのですね。

 

 京都大学の紀要に書かれた岡田さんという方のキリストと天使-その隠された関係というきちんとした論文が非常に面白かったです。

 

 今日中心的に取り上げたいのは一節から三節です。神はかつて預言者、ここには厳密な意味での預言者だけではなく、アブラハムやモーセのような神の啓示を受けた人々も含まれます、によって「いろいろな形でまたいろいろな仕方で」語られました。前半はいろいろな仕方は「多くの部分を持つ(polumerw/j)」というのが原語ですから、多くの時を捉えて、多くの人たちに向かって、多様な内容をその人たちに応じて、ということでしょう。そして多くの仕方で、は直接の言葉、ビジョンや預言、夢や幻、律法、自然、天使、人間、例えや謎などが考えられます。古い時代にはそのような形で先祖たちに語られました。それは豊かさと同時に、不完全さを持っていました。それぞれの人間は罪を持っていましたし、語られることにも限界があったからです。

 

 しかし、新約の時代には「御子によって」語られた。それは新しい時代で、今までとは比べることが出来ない。旧約の時代の不完全さに対して、完全、不明確さに対して明確に語られた。一つの時代が終わって新しい時代が来た。そしてそれは終末に向かっていく時代でもある。

 

 「御子によって」の「よって」はエン、内部で、の意味です。御子にあっての意味なのです。御子を媒介としてではない。御子を語り部にしてではないのです。単にキリストが語った言葉が神の言葉なのではない。間違えてはいけないのです。キリストの言葉や聖書の言葉を律法のようにして覚えること、行うことが神の言葉に従うこと、行うことなのではない。キリストのご自身が「神の言葉」であるのです。キリストにあって、キリストにおいて、特に十字架と復活の出来事を通して、神の言葉が語られたのです。キリストは神の栄光の反映であり、神の本質の写し、刻印であるという言葉がそのことを強く固めていきます。

 

 キリストは神の本質の写し、刻印である。もともとの意味は貨幣の表面に出来た型のことです。鋳型に入れますと貨幣は毎回同じように鋳造される。そのように神の本質を忠実に現代の言葉で言えばコピーした存在である。

キリストは世界の創造者であり、父なる神と共に世界の創造にかかわっておられた。そして万物を父なる神と共に保っておられる。父なる神の右に座す存在であることが語られます。

 

 つまり、十字架において惨めに敗北し、この世の悲惨を舐めつくして亡くなり、蘇らされたイエス・キリストが父なる神の本質の刻印であり、神の姿そのものだ、というのです。

 

 私たちは他に神の姿を求める必要はない。天地を創られた神、この世の中の秩序を保っておられる神の姿はどのようなものなのか、想像したり、類推したりする必要がない。白いひげの老人や怖い神、冷酷な神を想像したりする必要はない。どんなに悲惨な状況の中にあっても、それを冷酷に眺める神を想像しなくてよいし、またしてはいけない。

 人生の寒い日において、私たちは神に向かって様々な言葉を投げかけます。嘆いたり、問うたり、非難したり、恨んだり、呪ったり。怒りをぶつけたり。私たちはその時に覚えているつもりでも忘れてしまいます。それは神がどのような方であるのか、ということです。「わが神、わが神、何故私を見捨てて遠く離れて立ち、助けて下さらないのか。」私は神に始終申し上げます。私はその時に覚えていることが多くの場合出来ません。それは神ご自身が、もっと酷い経験をなさり、それを耐えて超えられた方であるということです。神ご自身が絶対の孤独と絶望の夜を通られて、死とさえ直面されたということです。そのことはこれからヘブライ人への手紙を読んで行きますと、大祭司キリストという言葉で繰り返し語られます。

 

 神を知りたいと願うならば、ただイエスを見なさい。それ以外は想像しなくてよい。ただイエスを見ること、特に十字架のイエスを見る時に私たちは私たちの全てを背負い、担い、被い包まれる神を完全に理解するのです。

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