燃やし尽くす火 ヘブ12:14-29
先週読んだ箇所は「鍛錬」がテーマでした。神は試練を与えて私たちを鍛錬するということが語られていました。今日の箇所も聖なる生活をするようにという勧めが基調になっています。中心的に取り上げたいのは、28,29節です。
ヘブライ人への手紙を読んできて、先回のような厳し目の箇所と、大祭司イエス論でキリストは弱さに同情できないような方ではない、という慰めとが交互になっていることに気がつかれたと思います。甘いだけでも厳しいだけでもない福音の本質が見えて来ます。
全ての人との平和、とまず書いてありますが、このヘブライ信徒の手紙では世間一般、教会の外の信仰を異にする人々のことではありません。パウロには外の人々という思想がありますが、この手紙の筆者にはありません。キリスト教徒一般でさえありません。特定の教会共同体に属するつまりヘブライ教会に属する人々です。聖なる生活とは神との交わりの結果である生活です。教会員の中での平和、そして聖なる生活をないがしろにして、終末において再臨のキリストにお会いすることは出来ない、というのです。
15節には三つの警告が書かれています。神の恵みから除かれる、とは神の一方的な全てに先立つ恵みは、それ故に人間の応答を要求します。これに応答しないことはすなわち、背教を意味します。第二は苦い根が現われて、とはもともと申命記の引用であり、偶像崇拝のことをいいますが、ここでは信仰から遠ざかる者、神に不従順な者について述べています。第三は一人の不信仰、背教が他の人々に影響を与え、思わぬ結果を招くことが戒められています。
次の箇所は創世記のヤコブとエサウの物語が下敷きになっています。もともとエサウは祝福を受け継ぐ筈の存在でした。しかし一杯の食物という目先の利益のために、その祝福を放棄してしまったのです。それを後悔して父イサクに自分もまた祝福を求めたが、時すでに遅く、悔い改めの機会は与えられなかった。祝福を受け継ぐはずの者がそれを放棄した時には、もはや悔い改めはない、という厳しい論調が引き継がれています。
18節以下は荒れ野のイスラエルの民が経験した恐ろしい光景が語られ、キリスト者が体験する終末の祝福の出来事と対比されています。
25節、語っている方は天に挙げられた大祭司イエスです。地上で神の御旨を告げるのはモーセで、対比が行われています。モーセを拒否した者たちが罰を免れなかったのだから、彼よりはるかに優って、イエスを拒否したものたちは罰を免れ得ないというのです。御声が地を揺り動かした、とは律法が伝えられた時にシナイ山が震えたということである。揺り動かされることのない天の御国のために、この世が裁かれる終末の出来事を述べています。
さて、キリスト者は終末の約束として、すでにこのような天の御国を与えられている。だから、この恵みを持とう。感謝するとはそういう言葉です。神の恵みを正しく受け入れよう。そして、このような恵みを受け入れた心から発する言葉と行いだけが、神の喜ばれるものになっていきます。そのようなことこそが礼拝であります。
29節は申命記4:24節の引用であります。新しい契約になっても、神はその激しさ、厳しさを失わない。焼き尽くす火のような厳しさを持っている。今までの文脈から言うのであれば、神の恵みに応えず、罪を意図的に犯し続け、聖なる生活をしようとせずにいるならば、神との永遠の交わりに入ることは出来ない。私たちは既に聖なるものとされている。みなされている。大祭司イエスの血潮によって清められてどこまでも受け入れられている。だからそこから、敢えて罪を犯して落ちるようなことをしてくれるな。
このような神の義と愛の性格について、ジョージ・マクドナルドという牧師はこんなことを言っています。「神は火を以て清めようと思うほど人間を愛しておられる。」
日本人は愛を甘く見積もる。ただ、そのままでよい、のだと思う。自分の心の中で神を信じていればいいのだと思う。自分が変えられなくてはならないとは思わない。本当に怠慢で、そうしてくれないと地団太を踏むことさえする。
確かに神はあるがままのあなたを受け取って下さる方です。汚いままのあなた、駄目なあなたを受け取って下さり、救いの関係に入れて下さる。しかし、恵みをきちんと受け取り続け、あなたがその恵みによって、焼き尽くされて行くことを求められる。罪が焼き尽くされ、聖なるものとなることを望まれる。
この清めということについて、いくつかのことを補っておきたいと思います。
赦しや無限の包摂のみがあって、清めのない世界というものについてお話します。私が交わりを持っている浄土真宗の方達がそうです。応答性というものが弱い。どうにもならない異性関係を抱えていた僧職の方もいます。今交わりのある方ではアルコールに溺れて引きこもりの生活をしています。地獄一定住処ぞかし、だからと言ってそこに座り込んでしまっています。本願倒れというのでしょうが、開き直ってどこまでも転落していく。おそらくは孤独死なさる方だと思います。無限の包摂というのは応答性がないところではある意味放置、ネグレクトなのですね。
今一つは清めのレベルというものです。それは意志を以て捨てなければならない習癖や、みだらなこと、俗悪なことのレベルと、生涯を賭けて焼き尽くされていくより内面的な聖化のレベルがあるように思います。
例えば過度の飲酒や好ましくない異性関係や借金やギャンブルや、そういうものは捨て去らなければならないもの、でしょう。嘘を重ねる生き方や不誠実な立ち方、そういうものもそうでしょう。もしもそういうものを棄てられないとするならば、今まで見てきましたが結構神様は実力行使をなさることがあります。
神父さんの卵の若い方、そして若い牧師さんで、見ていて上手くいきたい、出世したいということが周りからもよくわかる。二人とも共通するところはエリートということでした。しかし彼らは上手くいかない人生を与えられた。傍から見ていて伝道者としては要らない要素なのです。それは見事に引き剥がされた。牧師さんはそういう世渡りに精を出すと結構見事に実力行使に合います。
異性関係のドロドロの中で生き、片方で熱心に聖霊集会に出て生きていた女性もいました。信仰歴の長い方です。誰にでも身を任せてしまう。身を任せて男性を棄てることが、男性という者への仕返しだと言っていました。彼女はどうしても家族の問題や鬱病から癒されない。課題は明らかなのです。しかしそれをクリアしないためにどんどんドロドロに引き込まれて行ってしまう。
これらはきっぱりと棄てなくてはいけないものです。しかし、もう一つのレベルはより内面的なもの、です。それは人生を通して燃やし尽くされて行かなければない。急ぐことも出来ないより内面的なものです。
例えば赦しの問題です。赦せなくて仕方ない、愛せなくて仕方ない。しかし、神の愛によって溶かされて、燃やしつくされて、それらの人間としての限界がいつしか乗り越えられて行くままにされることを望まれている。
あるいは堕落まではいかないけれど、執着しないほうがいいもの、なくてもいいもの、です。そのことが生活の中心になりすぎてしまって、生活を支配している。神様の入る余地がない。ある方はアルゼンチンタンゴの名手でした。大教会の役員をしていましたが、彼の生活の中心はタンゴでした。まあそれだけではなくて、教会の牧師先生をものすごく馬鹿にしていました。彼は世の中の有能か有能でない、という基準を教会に持ち込んで人を責めましたので、彼に傷つけられて教会を去った人も沢山いました。ところが彼はALSになり、タンゴを取られました。否応なく神と向かい合わなくてはならなくなりました。私には神様やりすぎでは、と思いますけれど、神様には神様の理由があったのかもしれません。
普通はそこまでのことはありませんで、人生の節目節目で手放すように、働きかけられ、離すようになります。
色々な試練を与え、あなたの人間的で聖でない要素の膿を出し、焼き尽くしていこうとされる。あなたの中に、火を以て新しく聖なるものを作り出して行くそれが神の愛であり、恵みの本体なのです。